「どんなに都会の人に移転・集住を言われたとしても、地元の人たちはひっついてでも、そこで生きていきたい」
能登半島地震の発災直後に、よもや地方創生の関係者の方々から移転・集住を呼びかける大合唱が起こった件です。
以来、私が住みます長野県飯田市のいくつかの会に出席し、このようなお声を伺いました。
「(大合唱は)ナンセンス」。
「どんなに都会の人に移転・集住を言われたとしても、地元の人たちはひっついてでも、そこで生きていきたい」。
いずれのお声も、まさにと私は思いました。
「水道等のインフラが、もう維持できないではないか」と効率性の観点から移転・集住は唱えられますが、「各地の離島は全て閉鎖し、無人島にせよ」に行き着くことになり、日本が日本でなくなります。
仮に若い時は都会に出ても地元にUターンして、何世紀も先祖代々続いてきた土地で暮らしたいという強い感情の理解ができていないと、各地の地方創生の現場をもし訪ねても、お金の動き等の表面的なところしか見えなくなるのではと懸念します。
地方の現実は地方に住み、地域に溶け込んで、地元の人々と日々呼吸を合わせて、やっと少しずつ見え始めると、わかってきました。
東京にしか物差しが存在しないのでは決してなく、地方にも物差しは歴然とあるのです。
ですが、あたかも天竜川の和船には図面がないように、目に見えないのです。
よって、地方の人たちの静かな動きから日々察知して、学ぶしかない。
地方創生に取り組む方々が、地方を軽んじる言動をする前に、立ち止まって、より地方の現実を深くご理解くださることを、私は願ってやみません。
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