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能登半島地震を受けた移転と集住の大合唱の危うさ

今回の能登半島地震で、待ってましたとばかりに、移転と集住の大合唱が始まっていますが、私はとても違和感があります。

過疎地という毛細血管を切る社会は、やがてその心臓である都市部も衰えます。

地方での価値創造の根本となる「無い物ねだりでなくあるもの探し」が、今回の大合唱の中から全く聞こえてこないのも、違和感があります。

「故郷を追われるよりは、餓死してもいいから残りたい」という人々のか細い声。

"「復興しなくて廃村になるんじゃないかってみんなおびえてる。生まれてずっと住んでいる人ばかり。餓死してでも大沢に残りたいって言ってる人がたくさんいるよ。私も出たくない」"

か細い声が、移転と集住を求める大きな声に、かき消されるだけでは、真の先進国と思えません。

手がついていない環境は、日本国内では価値がないと見られても、世界からは #AuthenticJapan と至高な価値で認識されます。

毛細血管の地域に何世代も住む人々を、社会の地力不足だからと、みすみす追い出す展開が是とは私は思えません。

結果的に、集住した都市で後年で限界を迎え、そこも諦めて使い捨てる展開へ。

こうして東京へ東京へと、誰もが集まるしかなくなり、多様性を失った日本の首都も、衰弱の一途になります。

今はしんどくとも、各地が生き残れる知恵と経営に全力を注ぐべきです。

移転と集住の大合唱は、日本をより痩せ細らせ、貧しくする呪いの言葉であり、恐縮ですが、ショック・ドクトリンにしか私には思えません。

能登半島の被災者の方々は、いわば半島全体がお葬式をあげ続けて、悲嘆に暮れ、今の自分の思いを社会に発しがたい現況です。

悲しみに暮れるお葬式会場に乗り込んで「あなたたちの故郷はもう住めませんので、出ていくように」と言い放つようなものです。

もちろん、今回「移転と集住をやむなく言わざるを得ない」という地方創生を専門とする政治家や民間人の方々のご心情もあろうかと拝察します。

ですが、地方に住む人々(私を含め)は、「危機が来たら、地元を捨てろというのか。これまで地方創生を訴えてきて、危機になったら捨てろでは、虫が良いではないか」と彼らを今回認識せざるを得なくなるのです。

「考古学では地域を捨てて移り住むのは当然」とのご見解も拝見しますが、2024年の日本において、文明社会でない時代が例示されるのは、正直申しまして、粗雑すぎる印象です。

持論は曲げられないという方もいらっしゃるのは理解しますが、百歩譲って、今言うことではないはずです。

被災地で生き残れて、極寒の中で歯を食いしばり続ける方々が、心を折れないよう、そして未来への希望が持てるよう、日本を挙げて全力を尽くすべきです。

2000年に三宅島が噴火し、島民の方々が都内へ移転し、その中には、三宅島の自然を心から愛する海洋生物学者のジャック・モイヤーさんもいました。

島への復帰が許されない日々で、2004年に都内アパートで彼は自殺しています。

生前の彼の講演会場に伺い、愛嬌いっぱいに、命の重要性を熱弁するモイヤーさんが、まさか自ら命を絶つとはと、私は深い衝撃を覚えました。

移転そして集住論の方々が、社会の繊細な思いをする人々への理解をどれほどできているのか、私は不安でなりません。

以上で私が申しましたのは、感傷論でなく経営論です。

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