見出し画像

死生観の話。

自分が他の人と死生観が少し違うなと気づいたのは、新卒で入社した会社の大好きな上司が亡くなった時だった。それまで、身近な人の死には触れたことが少なかったが、新入社員のお母さん的存在であり、配属された総務部の上司でもあった方が、入社数年めに若くして病気で亡くなられた。会社には非常に暗い雰囲気が影を落とし、誰しもがその死を悼んだ。
しかし、私の気持ちは、「お疲れ様でした」という気持ちだけしかなく、悲しい気持ちは周囲の人のために頑張って振り絞って出した。それ以後の友人の死なども他者に命を絶たれたり、自分で命を絶ったわけではないので、悲しい気持ちはなく、「お疲れ様でした」の感情だけを想った。それは自分の祖父の影響が強いと感じている。

祖父は浄土真宗の僧侶で、毎週末ごとにお通夜やお葬式でお念仏をあげていた。帰ってくると、頂いたお弁当やお菓子を持って帰ってきてくれるので、子供心にお通夜やお葬式を楽しみに思ってしまう自分さえもいた。そんなことを察した祖父が言ったのは、「人の死は悲しいものではない。役割を終えて旅立つのだから感謝の気持ちを持つだけで良い」と教わった。人の死に対しての感情が形成されたのはこの頃だと思う。

そんな祖父も70数歳で癌を患った。様々な延命治療の方法はあったと思うが、自ら「何もしない」という選択をし、みんなに看取られながら亡くなっていった。祖父のお葬式は悲しくもあったが、しっかりと命を使い切った祖父に「お疲れ様でした」という気持ちでいっぱいだった。死を受け入れる覚悟や気構えを学んだ。

父にもその精神が受け継がれているのか、その数年後に祖母が亡くなった仮通夜の際、祖母の前で弟二人と私に指示をし、寺から木魚や鐘を持ち出してきて、一晩中、だんじり囃子を叩いたり歌ったりして笑って楽しんだ事を覚えている。良いお葬式でした。

添付の記事、スウェーデンは高齢者の延命治療に消極的で、コロナウイルス疾患者のICU利用には年齢制限もあるという。記事にもまとめている通り、日本においてはそう言ったことを言う政治家は選挙で通らないため難しいと思うが、私はすごく共感した。コロナウイルスだけでなく、日本の経済や医療が限界を迎える中、自分や自分の両親などが対象から外れたとしても、今回のコロナウイルスを契機に延命治療に対しては考えていかなければならないと思った。

コロナウイルスが落ち着いたら、スウェーデンにいってこようと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?