(文法的に考える補足)【翻訳】トーレス「僕はアトレティコのより助けになれる場所へ戻ろうと思う」
(この記事は全文無料でお読みいただけますが、もしご支援を賜れれば幸いに存じます。)
はじめに:記事の趣旨の説明
2020年9月17日、わたしはこんなnoteを投稿した。
翻訳記事を書いてサッカーダイジェスト誌の解釈に対して疑問を提示したのはいいけれど、根拠を示しておかないと、第三者が私の解釈の妥当性を判断出来ない。上の記事の執筆時は翻訳するだけで草臥れてしまったのでここまで書けなかったのですが、やっぱり如何にして上に示したように原文を訳したのか示した方がいいかなと思います。
本記事は主に文法事項に関する説明です。スペイン語の解釈に興味ないよ!という方は流し読みして下さっても問題ありません。ただ、文章を文法や語彙の知識を動員して考えると見えてくるものがある、私がトーレスを弁護したいあまりに文の原意を捻じ曲げて上の記事を書いたわけでない、といった事をお伝えしたいのです。
あと、私は言語学等の専門家でなければスペイン語の専門家でもありません、ただの通りすがりのスペイン語好きです。ですので、説明が学術的に精確ではありません。この点をご了承下さい。(だれか何か間違っている点が無いか私に教えてくれるとありがたいです。スペイン語を磨くために勉強したいです。)
といっても、記事の全文を事細かにやると膨大な労力が必要となるので、「日本での引退」の部分だけ。
原文はこのようになっています(便宜上文に番号を振りました)。
1.El exfutbolista dio sus últimos pasos en el fútbol en Japón. "2.Buscamos algo diferente y que nos sirviese como familia a nivel personal. 3.Fue una experiencia personal increíblemente enriquecedora, también por la privacidad y el respeto de la gente. 4.Poder ir a un centro comercial, pasear por la calle, ir en bicicleta tan tranquilo, algo que aquí no se puede. 5.Era un fútbol para el que no estaba preparado, no sé jugar al fútbol si no es para competir contra los mejores. 6.Por eso solamente estuve un año, lo mío era competir y no jugar al fútbol, pero fue un año fantástico".
これを見ると、1が地の文、2から4が日本での私生活、5が(物議を醸した)サッカーについて言及した部分、そして6が総括だという事が分かります。
さて、文章解釈の基礎の基礎は「主語」と「述語」を押さえることにあります。これさえ分かれば文の骨格は分かります。あとは目的語は何か、補語は何かetc.を押さえれば何とかなります。それでも何とかならない時は言葉のニュアンスに関する知識や背景知識を駆使します。今回はこちらをあまり本格的にすることが出来なそうですが…
以下、各文の解釈ごとに章分けしています。そして、各章の一番下にその章で扱った文の拙訳を載せています。ですので、読むのが面倒な方は各章の一番下と、「で、元の記事の訳文はこうなる」の章だけお読みいただければ何ら理解に差し支えはありません。
また、前回の記事から訳を改めたところもあります。
一文ずつ見ていきましょう。
1文目
1.El exfutbolista dio sus últimos pasos en el fútbol en Japón.
主語はEl exfutbolista 述語はdio.
翻訳の中での訳注で説明しましたが、スペイン語は(おそらく欧州の他の言語もそうです)同じ文章の中で同じものを言い表す時、全く同じ表現をするのを避ける傾向にあります。主語のEl exfutbolistaは男性定冠詞Elに、接頭語ex(元), 普通名詞futbolista(サッカー選手)が組み合わさり、「元サッカー選手」という意味になります。もちろんトーレスのことです。原文の中でもTorresという表記もあれば、Exdelantero(元フォワード)、El Niñoという表記もありました。
「元サッカー選手は、選手として最後のキャリアを日本で過ごした。」
2文目
2."Buscamos algo diferente y que nos sirviese como familia a nivel personal.
2から6までが " " で括られています。つまりトーレス本人の発言の引用部分です。
主語は明示されていませんが、述語を見ればわかります。で、述語はBuscamos.
スペイン語は一人称・二人称・三人称の人称と、単数か複数か応じて動詞が活用します。各時制(細かい説明は省きますが)につき6つの形に変化します。
述語のBuscamosは動詞buscarの直説法現在形の一人称複数形。「一人称複数形」というのはつまり、「私たち」ということです。トーレスがここで「僕」でなく「僕たち」と言っているのはたぶん、自分だけでなく家族を含めた視点からものを語っているからだと思います。
辞書的な意味に頼って直訳すると「個人的なレベルで家族のように僕たちのためになる何か違ったものを僕たちは探していた」とでもなるのでしょうか。日本語としておかしいですね。意味不明。
わたしはこう訳しました。「個人的なレベルで家族のように感じられる、これまでと違う何かを僕は求めていた。」
正直これでもちょっとおかしな日本語なのですが、原文をあまりに崩していいのか分からず、この訳に落ち着きました。要は、「欧州とは違う経験をしたい」「家族のように温かく迎え入れてくれる場所を求めていた」ということを言いたいのだと思います。
3文目
3.Fue una experiencia personal increíblemente enriquecedora, también por la privacidad y el respeto de la gente.
ここでも主語が明示されていません。述語はfue。
Fue というのは英語のbe動詞にあたる名詞の一つ(スペイン語にはbe動詞にあたる動詞が二つあるのです!厄介ですね)serの点過去形(過去形も複数あるのです。ざっくり言うと「点過去」というのは過去の終了した一時点・ひとまとまりの時間を指す時に使う時制です)
では主語は?これは文脈で判断するしかありません。2の文で日本を選んだ理由を説明していましたよね?となると、この文では「欧州を出てみてどうだったのか」「日本の生活は実際にどうだったのか」を語っていると考えられます。だからここに明示されていない主語は、単数形であり話題に合致した言葉、la vida en Japón(日本での生活)とか la experiencia en Japón(日本での経験)が念頭に置かれていると考えられます。
una experiencia personal increíblemente enriquecedora
原語に忠実に訳すなら「個人的な」と入れるべきなのでしょうが、敢えて「個人的な」と入れなくても大意は同じだと判断しました。
también por la privacidad y el respeto de la gente.
この文の後半部分は何に感銘を受けたか?を説明しています。その一つとしてla privacidad.「プライバシー」としか言っていませんが、おそらく「プライバシーが尊重されること」ですね。その理由は4の文を読めばわかります。el respeto de la gente.「人々のリスペクト」と直訳できますが、わたしはなるべくカタカナ語を避けたい。「リスペクト」の意味を考えるならば、「人として敬意を払って接してくれた」といった解釈が妥当ではないでしょうか。
そんなわけで3の拙訳は「信じられないくらい実りある経験だった。プライバシーが守られ、人々から丁重な扱いを受けたからだ。」
4文目
4.Poder ir a un centro comercial, pasear por la calle, ir en bicicleta tan tranquilo, algo que aquí no se puede.
これは実は主語と述語が一揃いになった文の形をなしていません。ですのでとりあえず内容を見ます。
先回りすると、algo~の部分で「(これら全ては)ここ[スペイン]では出来ないことだ」と言っています。では何が出来ないのか?
一つ目に挙げられているPoder ir a un centro comercial.
ここ、次の文との違いを考える上で重要です。動詞のPoderが重要なのです。なぜならスペイン語には、日本語で「出来る」と訳せる主な動詞として、Poder, Saberの二つがあるからです。次の文ではもう一つの「出来る」、Saberが使われています。
Poderは、いくつも意味がありますが、「状況的に可能である」というニュアンスがある点です。(Saberは5の文の所で後述)
トーレスは一つ目に「ショッピングモールに行くこと」を「スペインでは出来ないこと」に挙げています。これは、例えば、トーレスがスペインのショッピングモールの場所が分からないとか、スペインで車の運転が出来ないから行けないとか、そういう意味ではありません。おそらくスターであるゆえにスペインでは思うように買い物したりでき(poder)ないという事です。
残りの二つについては拙訳を見て下さいませ。
4の拙訳は「ショッピングモールに行ったり、散歩したり、のんびり自転車に乗ったり、ここ[スペイン]では出来ないことが出来た。」
で、問題の箇所です。
5文目
5.Era un fútbol para el que no estaba preparado, no sé jugar al fútbol si no es para competir contra los mejores.
さて、この文も主語が何なのか分かりません。記事を書いている時もここで一番頭を悩ませました。
とりあえず、サッカーダイジェスト紙の解釈に(ちょっと嫌な気分になるかも知れませんが)ご登場願いましょう。
まず、件の記事では「トップレベルではない相手に、どのようにプレーしていいかわからなかった」という解釈がされています。その該当箇所は
no sé jugar al fútbol si no es para competir contra los mejores.だと思われます。
さて、この部分をそのように訳して良いのか?元の文をno sé jugar al fútbolと、 si no es para competir contra los mejoresに分割して考えましょう。
no sé jugar al fútbol
さて、sé というのは4の文で言及した動詞saberの現在形一人称単数形です。この動詞単体だと「知っている know」といった訳が出来ます。ところが、すぐ後ろに動詞の原形がくっつくと「~できる」という意味になります(つまり、sé~で「私は~できる」となる)。では、4に登場したPoderと何が違うか?Saberには「~する能力・技能がある」といったニュアンスの言葉です。
jugar al fútbolで、「サッカーをする」。
séの前のnoは否定文を作るための言葉です。
ですので、この部分の訳は「僕はサッカーができない」(する能力が無い)となります。では、残りの部分は?
si no es para competir contra los mejores
乱暴な説明になりますが、siは英語のifに相当すると考えて下さい。「もし~なら」。
no は否定文を作るための言葉
esは英語のbe動詞にあたるserの直説法現在形三人称単数(要は英語のisだ―直接対応する訳ではないのですが―とざっくりと理解して下さい)。
主語が明示されていません。でも、ここはサッカー(トーレス自身の?日本の?)がどうだったのかという話をしています。とりあえず主語としてel fútbol(サッカー)を補っておきましょう。
competir contra 「~と競う・争う」といった意味です。
los mejores. 「最上の」を意味する形容詞mejorに男性複数形の定冠詞losが付き、「最上のもの」となります(件の記事では「トップレベルの」と訳していますね)。
さて、mejoresが男性形だと言いました。スペイン語の名詞には男性形と女性形があり、ごく少数の例外として中性形があります。mejoresがわざわざ男性形になっているということは、何か男性名詞が隠されていると推測されます。何でしょう…?ここではサッカーの話をしています。で、その前にcompetir contraとあるので、競争相手を表す男性名詞が入ると考えられる。とすると、jugadores(選手たち)やequipos(「チーム」の複数形)が入ると考えればいいのではないでしょうか?
総合すると、si no es para competir contra los mejoresは
「(トーレスの?日本の?サッカーが)最良の選手(かチーム)と競争するためのものでないならば」となります。
さて、では分割したものを組み合わせて考えると、
no sé jugar al fútbol si no es para competir contra los mejores.は
「(トーレスの?日本の?サッカーが)最良の選手(かチーム)と競争するためのものでないならば」「僕はサッカーができない」(する能力が無い)となる。
さて、問題はここからです。主語は「日本のサッカー」「トーレス自身のサッカー」どちらだろうか?
まず、仮に「日本のサッカー」だとして考えてみましょう。
「(日本のサッカーが)最良の選手(かチーム)と競争するためのものでないならば、僕はサッカーができない」(する能力が無い)
…どうでしょう?訳文が直訳調で分かりづらいですが、主語が「日本のサッカー」だとすると、二通りの意味が考えられます。
1.「日本のサッカーでは最高の選手・チームたちと戦えない。だから、僕はそういった場所でサッカーをする能力がない」となるのでないでしょうか?
…?こうかみ砕いてみてもちょっと分かりづらいですね。これはさらに場合分けが必要そうです。
1.1.「日本のサッカーはトップレベルの選手やチームと戦えない。ゆえに僕はそんな場所でサッカーをすることが出来ない」という解釈(要は「こんなレベルの低い所でサッカーなんて出来るか!」という解釈ですね)
サッカーダイジェスト誌の記事はこのような解釈を基にして書かれたものだと私は受け取っています。が、こう考えるのには無理があります。
もちろん、リーガ・エスパニョーラやプレミアリーグと比べてJリーグのレベルは高くないでしょう。それはトーレス自身も分かっていたはずです。
とはいえ、「レベルが低い相手にどうサッカーをすればいいのか分からなかった」という意味のことを言い表したい場合、"no sé jugar al fútbol"という言い方をしないはずです。繰り返しますが、「saber (sé)+動詞の原形」は「自分に~をするだけの能力が無い」というニュアンスがあるからです。もし「Jリーグのレベルが低い」云々ということを言いたいならば、敢えてこのような言い方をするとは考えづらい。
1.2.「日本のサッカーはトップレベルの選手やチームと戦えない。しかし、僕はそんなところでサッカーをするレベルにはなかった」という解釈も考えられなくはありません。
そりゃ全盛期を過ぎて下降期に差し掛かっていたとはいえ、欧州のトップレベルでプレーしてきたトーレスが、「最高でない相手」と「競争する能力がない」(争っても自分が負ける)などという発言をすると考えられますか?いくら謙虚な人でもさすがにこれは卑下し過ぎでしょう。
2.あるいは、「Jリーグでは最高の選手・チームと戦えない」だから、「僕はサッカーをする能力がない」
こちらは支離滅裂ですね。Jリーグが楽勝だと思っていたならば、「僕はサッカーをする能力がない」などと言わないでしょう。「こんなレベルの低い所でサッカーなどやってられるか!」という意味だとしたら、no sé jugar al fútbolという言い方にはならないはずです。
(何だか書いているうちに自分でも意味が分からなくなってきましたが、要するに、こちらの解釈だとどうしても無理が出てくるということです)
つまり、主語を「日本のサッカー」として解釈すると何かがおかしくなる。では、主語を「トーレス自身のサッカー」とすると?
no sé jugar al fútbol si no es para competir contra los mejores.の訳は
「(自分のサッカーが)最良の選手(かチーム)と競争するためのものでないならば、僕はサッカーができない」(する能力が無い)。
これまた直訳調で分かりづらいですね。つまり、少し言葉を補ってやって、こういうことではないでしょうか。
「僕のサッカーは最良の選手やチームと戦うためのものである。もしそうでないならば、僕は自分がしたいサッカーができない。」
「そうでないならば~できない(能力がない)」ここは、もうちょっとかみ砕いて言うと、「自分のサッカーが最良の相手やチームに通用しないのであれば、それは僕がしたいサッカーを僕自身が出来なくなったことを意味する」ということでしょう。
ほら、こっちの方が彼がサガン鳥栖にいた時期の発言とも辻褄が合うと思いませんか?たぶんこっちの解釈でしょう。
そうそう、件の記事では「トップレベルではない相手に、どのようにプレーしていいかわからなかった」となっていました。たしかに細かい語句の範囲では被っている部分がありますが、よく考えるとこの解釈は無理があるのでないか?と思うのではないでしょうか。
さて、(長々とすみません。書いていて自分でも疲れてきました。)残りの部分を検証しましょう。
Era un fútbol para el que no estaba preparado,
これは、ここまで検討してきた文の前半部分です(あれで一文ではなかったのです!)。つまり、さっきまで考えていたのは後半部分。
私は2020年9月17日にこうツイートした。
要は、Eraの主語が見抜けなかったために、サッカーダイジェスト誌の記事の解釈が生じたというもの。でも、既に考えたように、この文全体の隠された主語は「トーレス自身のサッカー」と考えた方が良さそうだ。
さてそれを踏まえて、Era un fútbol para el que no estaba preparado,の意味を考えましょう。
上のツイートにもあるように、Eraというのは度々登場しているbe動詞的存在のserの一形態です。線過去の三人称単数形です。(線過去というのは主に、ある程度の広がりを持った過去の時間の様子を描写する時に用いる時制です。)
el queは「que 以下のような人」という意味です。
no estaba preparado
estabaはもう一つのbe動詞estarの線過去の三人称単数形です。ser(この文ではFue)が恒久的、長く継続する状態を表す時に使うのに対して、estarは一時的な状態を表す時に使われます(もちろんそれ以外の用法もありますがここでは省略)。でpreparadoは「準備・支度が出来た」という意味の形容詞です。
そして、noを付けて否定しています。
(ただし、estabaは一人称単数でもあります。ですが、ここは三人称でしょう。確かにこの文ではel que~で示す人間はトーレス自身です。しかし、トーレスはここで、一歩離れた客観的な視点から自己を見つめているのでしょう。それ故に三人称として解した方が良い気がする)
ですので、el que no estaba preparadoは、「準備が出来ていない人」となります。まぁここでは「人」より「選手」とした方が自然でしょう。
何の準備?おそらく、相手と競う準備、試合の準備でしょうね。
さて、検討が長くなって忘れそうですが、この文の主語は「トーレス自身のサッカー」と捉えた方が良い解釈が出来そうだ、ということでしたね。とすると、
Era un fútbol para el que no estaba preparado
の訳は「自分のサッカーは、準備が出来ていない人のためのものだった」となります。あ、paraは「~のための」という意味の前置詞です。
さて、長くなりました、5の文の訳はこうなります。上で考えた解釈を反映させるために言葉を結構変えますが…
「僕のサッカーは最良の選手やチームと戦うためのものだ。僕のサッカーが最良の相手やチームに通用しないのであれば、それは僕がしたいサッカーを僕自身が出来なくなったことを意味する。ところが、自分のサッカーは、相手と競う準備が出来ていない選手のそれだった」。
ここに辿り着くまで長かった!
6文目
6.Por eso solamente estuve un año, lo mío era competir y no jugar al fútbol, pero fue un año fantástico".
さて、これで最後です。疲れたので解説が必要そうなところ以外はささっと片付けます。
Por eso solamente estuve un año,
「そんなわけで、僕は一年間しかいなかった。」
どこに?日本、あるいは鳥栖ですね。
どんなわけで?5文目で考えましたね。「自分がやりたいサッカーが出来なかった」と。相手と競うためのサッカーを自分自身が出来ないと認識した、というわけです。
lo mío era competir y no jugar al fútbol, pero fue un año fantástico.
lo mío (「私のもの(男性名詞)」ここでは「僕のサッカー」を言い換えているのでしょう。それはかなり高水準なサッカーだという事が発言の隅々から感じられるようです。ところが…)
僕のサッカーは相手と競うためのものであり、単なるサッカーではない。
(勝利のために相手と競うことが「僕のサッカー」だ!と言っているわけです。物腰柔らかい語り口のトーレスですが、静かな闘志が感じられます)
「だけど(思うようなサッカーが出来なかったけれども)、素晴らしい一年間だった」。
となるわけです。
つまり6文目は
「そんなわけで、僕は一年間しかいなかった。だけど[思うようなサッカーが出来なかったけれども]、素晴らしい一年間だった」。
となります。
以上!終わった!上の訳文をまとめると、スペインのインタビュー記事で日本に言及した部分は以下のように訳せます。前回の記事から少し修正しています。
で、元の記事の訳文はこうなる
日本での引退
元サッカー選手は、選手として最後のキャリアを日本で過ごした。「個人的なレベルで家族のように感じられる、これまでと違う何かを僕は求めていた。信じられないくらい実りある経験だった。プライバシーが守られ、人々から丁重な扱いを受けたからだ。ショッピングモールに行ったり、散歩したり、のんびり自転車に乗ったり、ここ[スペイン]では出来ないことが出来た。僕のサッカーは最良の選手やチームと戦うためのものだ。僕のプレーが最良の相手やチームに通用しないのであれば、それは僕がしたいサッカーを僕自身が出来なくなったことを意味する。ところが、自分のプレーは、相手と競う準備が出来ていない選手のそれだった。そんなわけで、僕は一年間しか[日本・鳥栖に]いなかった。けれども[サッカー選手としては悔いが残るけれども]、素晴らしい一年間だった」。
(以上、拙訳おわり)
ここで訳文をまとめている時に気付いたのですが、「自分のサッカー」という言葉で「サガン鳥栖時代のトーレスのプレー」と「トーレス自身が思い描く自分のやりたいサッカー」の二つが言い表されていることが、この文章(特に5,6文目)がややこしい原因ですね。
(※5文目の考察を直したいところですが、あまりに大変なので、せめて最小限の修正をと思い、上の訳文の最終版では「サガン鳥栖時代のトーレスのプレー」にあたる箇所の訳を「プレー」に直してあります。)
最後に:雑感―なんでこんな記事を書いたの?―
ここまで長々と考えてきましたが、もちろん自分の解釈が間違っている可能性もあります。
ただ、前のnoteで自分が提示した翻訳、特にサガン鳥栖時代を振り返った部分の解釈が根拠なきものではない、ということを示したかったのです。
マスメディアは日々多くの記事を処理せねばならず、詳しく検討出来ないこともあるでしょう。今回のトーレスの発言について子細に検討する時間もないでしょう。スペイン語があまり得意でなくて誤訳(?)をした可能性もあります(まさか翻訳サイトで「翻訳」しただけということはさすがに無いと思いたい)。また、閲覧数を稼ぎたいために敢えてセンセーショナルなことを書いた可能性もあり得ます。
おそらく、そういった様々な事情が重なって件のサッカーダイジェスト誌の記事が世に出たのでしょう。
ですが、やっぱり私はあの記事を読んだときに納得できなかった。私は川崎フロンターレのサポーターで、サガン鳥栖のサポーターではありませんが、鳥栖のサポーターがあのセンセーショナルな記事を読んでがっかりするのでないかと(勝手ながら)心配になりました。それに、トーレスはyoutubeの動画「JリーグTV」でフロンターレの事も褒めてくれた。
あの発言は嘘だったのか?どうもそう思えないし、そう思いたくない。
個人的な話をすると、私は2019年の7月7日、雨の等々力陸上競技場での川崎フロンターレ対サガン鳥栖戦をゴール裏で観戦しました。あの日、トーレスの姿を見て舞い上がった気分(すげー、フェルナンド・トーレスが目の前にいる! ミーハーである)になったのを覚えています(雨具を忘れたせいで雨でびしょ濡れになったし、試合はスコアレスドローだったけど。)。他サポの私ですらこんな気持ちにさせる選手だったのですから、サガン鳥栖のサポーターにとってフェルナンド・トーレスはさぞ大切な選手だったのだろうと思います。トーレス選手の発言の真意は何だったのか?
それならば、自分で原文を読めばいいじゃないかとふと思い付きました。このままあの記事に反論しなかったらトーレス本人にとってもサガン鳥栖やJリーグにとってもマイナスでしかないのだから。
そこで自分なりに原文を読んで考えた結果、トーレスがJリーグやサガン鳥栖を悪く言ったわけではなさそうだ、という結論に至りました。
私が書いた記事を多くの人が読むとはあまり思えませんが、鳥栖サポーターの、今回の記事に起因するトーレスへの誤解が少しでも解けたらいいなと願っています。
ここまで読んで下さりありがとうございました!
誤字脱字があったら時間がある時に直します。
2020年9月18日 ゆたか
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