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宗教とスピリチュアリティの学び方


1.宗教とスピリチュアリティの特徴

 宗教とスピリチュアリティは哲学や心理学など他の人文系学問と違って、毒にも薬にもなる度合いが甚だしい。これら2つの分野についての詳しい知識は選別眼のある人を除いて、教条主義になって足かせになりやすい。 
 理由の一つに、大半の情報には発信者や編纂者の主観的解釈が含まれているということにある。これには聖書や仏教の経典なども含まれる。特定の宗教や著者の思想に偏り過ぎると、視野が狭くなり浄化が遅れることはよくある。
 次に、高額なワークや物品は霊的に見てあまり効果がないか、悪影響を与えるものの方が多い。霊格の向上は心の管理や、仕事や家庭での利他行為など、この世的な努力が不可欠で、修行の大部分を占める。
 また、霊格と霊能力には相関関係があまりない。善意からの人も多いが、霊能力をビジネスで利用している人の多くがそれほど高次ではない段階の霊視やヒーリングに終始している。そうした通信元と交流していることに気づいていない指導者は多い。よい言葉の中に一部の虚偽が含まれているため、そのことに気づきにくい。正しい情報もあるが、間違った霊的事実を悪意なく伝えている現状がある。 
 確かに、霊格が高まってくると、自然と霊能力が発露する場合がある。しかし、そのような人は能力を隠しているか、無償で浄化する力を提供していることが少なくない。
 総じて、精神世界への安易な傾倒は危険であり、良心的な人と高額な講座やヒーリングを勧める悪徳業者とが玉石混交している。

2.道徳と宗教

 利他行為は直接報われるとは限らない。しかし、親切にされた人の中には「自分も人のために何かしてみよう」と思い立つ人も出てくる。親切の連鎖が周囲の人に循環していくと、やがて自分も親切にされる。人の幸せは水面下で関連している。それは目に見える形でなくても、私たちに生きる意義を与える。
 人為的思考の産物である道徳は社会契約であり、利他性は自分が生きている間に限られる。宗教では、利他行為は自分の死後や先祖と子孫にも影響すると考える。 
 信仰は神と自分との約束であり、死後の生活は生前の徳と業、日頃の思いのあり方によって決定される。
 では、以下の3つの問題へのあなたの答えはどうなるだろうか。道徳と宗教のどちらを優先するかによって、答えが変わる場合もあるだろう。 
・川で自分の子と他人の子が溺れていたら、どちらを助けるか→家族と社会のどちらを優先するか
・殺人は必ず悪か→死刑なら善で、自殺なら悪なのか。また、人の命はその人の所有物といえるのか
・家族を殺した犯人を憎むのは正しいか→家族愛による義憤と悪念の克服はどちらがより善か

3.霊性開発の注意点

 霊性開発では頭脳ではなく心の思考を中心に学びを深めていく。頭の知能指数ではなく、心の知能指数が求められる。理論の整合性があるからといって、信仰や霊性開発の道に進むとは限らない。霊性開発は魂と肉体人間の自分との連携強化に重きがある。このような同じ属性の人たちとの結束は固い。
 その反面、「私は選ばれた人間」という優越感を抱きやすく、本当の自信のなさを隠すために利用しがちになる。そこから、信仰心のない人や俗人への無意識の軽蔑心に向かうこともよくある。
 さらに、「愛」「感謝」の思いで万事うまくいくといった思考停止状態に陥りやすい。信仰は深くなるほど、魂の讃歌である喜びも、試練による苦しみも共に大きくなることが多い。
 苦しみが増す原因の一つには先祖と自分の業が大幅に減るよう導かれることにある。功徳は子孫に継承され、彼らは精神的にも経済的にも恵まれた運命をもって生まれてくるようになる。

4.何をどう学ぶか 

 雑多な情報を選別できなければ、自分に都合のよい解釈をしてしまう。例えば「今を楽しんで好きなことを仕事にする」というメッセージは正しいが、「逆境に苦しむことも、業を減らし飛躍する上で必要」「心のあり方の結果として後からついてくる」と補わないといけない。著者側からすると、読者にとって受け入れやすい内容を書かなければ共感されにくい。そのため、あえて浅い説明にとどめ、口当たりのよい言葉で読後満足感を与えることがよくある。活字媒体や個人を盲目的に受け入れず、まずは自身の思想的基盤を築くことが欠かせない。
 つまり、霊性についての本を読む、セミナーに参加するという方法はある程度自浄能力のある人以外、勧められない。特に対面でのセミナーやワークでは指導者はもちろん、その場にいる参加者からの影響も見逃せない。
 そうしたコミュニティには指導者の霊格に応じた参加者が集う。霊格を感じ取る直観力がなければ、安易に宗教方面へ足を踏み入れるべきではない。
 本格的に霊性を磨く上で、霊との戦いは避けられない。浄霊能力が自然に芽生えるまで、思索や反省、周りの人や守護霊への感謝を忘れないなど、地に足をつけた生活を中心に据える必要がある。そうすると、自分に合った学びを受け取ることができるよう導かれる。
 浄霊能力と除霊能力は質において、かなり違う。除霊だけできても不十分で、何度も頼ってくる霊も数多くいる。生兵法の状態で霊的真理を身につけようとしない方が、かえって霊的に向上していくことが多い。
 スピリチュアルに興味をもつ人の大半は純粋な心をもっている。その分、霊的な教えに依存することもある。依存は「理想の自分に近づけていない格好の悪い私」という思いが強いとき、生まれやすい。私たちはこのままでも尊い存在であり、今の自分を受け入れれば、次の段階で活躍するための環境が整えられる。
 そうとはいえ、私たちは自分の意志だけで良くない思いをなくすことはなかなかできない。不安や怒り、悲しみの中につい身をゆだねがちになってしまう。自分の弱さを眺めた後はもう責めずに、光の見える方向に心を向ける。どんな悩みや苦しみであっても、自分の中の神性を認めることによって痛みは次第に消えていく。

5.顕在意識に上げる学び

 学びというと普通は、潜在意識に下げる学びのことを指す。知識は潜在意識に定着すると、実生活で応用できる知恵になりやすくなる。ためになる情報を目にしたり「こうしよう」と改善点が浮かんでも、放っておいたら忘れてしまう。学んだ内容を発信して無意識下に落とし込むと、熟練職人の勘やコツを受け継ぐように暗黙知へと変わる。
 一方、心の学びを潜在意識から顕在意識に上げるには自然や一部の神社、徳のある人などが発している気を吸収する、祈りによって清浄なエネルギーと同通しようとするといった方法がある。エネルギーを十分に取り入れるには、欲や不安など潜在意識の汚れを取り除くことが求められる。
 理屈であれこれ考えることを少なくすると、潜在意識が活性化される。ただし、意識が開かれると、よい気だけではなく自分の悪念や人の邪気も取り入れやすくなる。したがって、興味本位の内的修養は避けるべきで、実るほど頭を垂れる稲穂のように絶えず自分を律することが求められる。

6.浄霊と除霊、ヒーリングの違い

 浄霊は守護神による背後からの働きかけによって可能になる。自分の魂の力によって浄霊できる場合もあるが、相当浄化された魂の持ち主に限られる。
 除霊は自分の魂もしくは守護霊、両者の共同によるものの3種類がある。即座に憑依霊をほどく方法以外にも、前向きな心によって互いの波長が合わなくなり、自然に不成仏霊が離れていくケースもある。
 ヒーリングも同じく3種類だが、浄霊と違って憑依霊の霊層を上げることを必ずしも意味しない。背後からの支援が弱く、自力主体でヒーリングしていると、相手の人間と憑依霊からの負のエネルギーを吸収する度合いが大きくなる。特に、高額な費用を取っている霊能者やヒーラーは治療が思わしくない場合に相手の不満や不信、怒りの念を受けやすい。

7.宗教体験と信仰

 宗教体験には祈りや瞑想、インスピレーションなどがあり、全てのものがつながっているという感覚を味わうことが多い。自分を超えたものと一体感を伴う場合もある。思いと行為の反省を通して神仏への信仰に心を向けると、何者かによって導かれていて、守られているということを実感することができる。
 信仰は自分が救われるための手段ではなく、既に救われているからこそ正しく信仰することができる。神が自分の中にいると実感するとき、心の奥から安心感が生まれ「救われている」と感じることができる。宇宙や自然も信仰の対象になる。宗教を学ぶことは自分の本当の姿を思い出していく過程といえる。


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