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愚者は学習し、賢者は勉強する:なぜ僕らは思考をアップデートしなければならないのか?

このnoteは、僕の著書『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』に入れられなかった文章や、関連する考察を中心に更新しています。記事を気に入って下さったら、書籍もお読みいただけるととてもうれしく思います。

きょうは、今すぐ役に立つわけではない話を書きます。

目の前にあるものを見つめ続けるだけでなく、少し遠くをちらっと眺めることも僕らには必要だからです。

なぜ僕らは勉強しなければならないのか?

本の中でも、この問いに対する一つの回答を提示していますが、ここでは少し違った角度から答えてみたいと思います。

「学習」と「勉強」の違い

まず確認したいのは、「勉強」するのは人間だけだ、ということです。

人間以外の動物も「学習」はできます。

たとえば猫はエサとなる動物の捕まえ方、高い場所への登り方などを、トライアルアンドエラーを繰り返しながら、身をもって経験することで学習していきます。

では、「勉強」とは何かというと、自らの実際の体験を経ることなく何かを身に付けることです。

「勉強」と聞いて、僕らがどんなものを具体的に想像するかというと、本や論文を読んだり、教科書やテキストを開きながら紙に計算したりしているシーンだと思います。

簡単に言えば、「机に向かっている」場面です。

そのとき、明らかに「実地に学んで」いません。書物に書かれている内容を実際に見てきたわけでも、経験したわけでもありません。

だから、勉強とは、自ら経験していないもの、自らの経験を超えているものを理解し、知ることを指すのです。

「学習」と「勉強」をこのように定義しなおすと「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という有名な言葉を次のように言い換えることができます。

愚者は学習し、賢者は勉強する。

人間だけが進化を飛び越える

では、なぜ経験を超えたものを身に付けるという「勉強」が必要なのか。それは、僕ら人間だけが、進化を経由することなく行動様式を変えてしまうからです。

ビーバーは、あるとき誰かがダムを作ろうと決意したからダムを作るのではありません。ダム作りは、進化の中で長い年月をかけた自然淘汰の結果として獲得した「本能」です。

それゆえ、ビーバーたちはそう簡単に行動様式を変更することができません。

対して、僕らは簡単に行動様式を変えてしまう。

たった二、三千年の間に、三大宗教を作り出し、市場経済システムを生み出し、民主主義社会を実装してしまった。

あるいは、科学や技術。

それらは決して僕らの脳にデフォルトで設定されている本能から生み出されたものではありません。

放っておけば自然と理解できるというものではないのです。

つまり、「文明」という名で総称されるありとあらゆるものは、それらの仕組みや限界、問題点を理解しようとしたら、僕らは勉強しなければならないのです。

重要なのは、僕らの脳が進化した分だけ、それに合わせて文明も発展するということではないという点です。

僕らの脳はおよそ七万年前からほとんど変わっていないといいます。だから、もし七万年前の石器時代の人間に僕らが出会ったとしても、彼らと多くを共有できます。

私たちは彼らの言語を習得することができ、彼らも私たちの言語を習得することができるだろう。不思議の国でのアリスの冒険から、量子物理学のパラドックスまで、私たちは知っていることのいっさいを彼らに説明でき、彼らは自分たちの世界観を私たちに教えられるはずだ。(『サピエンス全史(上)』、ユヴァル・ノア・ハラリ、河出書房新社、2016年、35頁)

脳は器質的にはまったく進化していないのに、文明だけはどんどんと変化していってしまう。

だから、僕らは認識と思考をアップデートし続けなければならない。

時代が変わるごとに、社会制度が変わるごとに知識や常識をセットアップし続けなければならないのです。

これらは脳という「OS」にプリセットされているものではありません。

僕らは文明が変化していくことに合わせて、OSを変化させるのではなく、勉強によって「アプリケーション」をアップグレードしたり、新しくインストールしたりしていかなければならなくなったのです。

それは文明を持ってしまった代償です。

僕らの生活はすぐに変わってしまう。

制度、技術、歴史、科学的知識、そしてそれを語るための言語。

これらは、僕らの身体や脳が進化によって変化するよりも桁違いに速く変化する。

しかし、だからこそ、僕らは生存に直接関係しない「文化」を持つことができた。

人間以外の動物は、文化を持つことはできません。

人間だけが文化を生み出すことができる。

異なる視座から眺めること

ここまで書いてきて、結局何が言いたいかというと、人間存在を地球に発生した一つの種、一つの動物として眺めてみると世界の見え方が変わるということです。それは、地球の外から地球上の生物を眺める知的生命体としての目線ということです。そんな視座から見ると、人間という種は極めて特殊な存在です。

生物学者リチャード・ドーキンスは処女作にして代表作である『利己的な遺伝子』の冒頭で次のように宣言しています。

ある惑星上で知的な生物が成熟したといえるのは、その生物が自己の存在理由をはじめて見出したときである。もし宇宙の知的にすぐれた生物が地球を訪れたとしたら、彼らがわれわれの文明度を測ろうとしてまず問うのは、われわれが「進化というものをすでに発見しているかどうか」ということであろう。地球の生物は、三〇億年もの間、自分たちがなぜ存在するのかを知ることもなく生き続けてきたが、ついにそのなかの一人が真実を理解しはじめるに至った。その人の名はチャールズ・ダーウィンであった。(『利己的な遺伝子〔増補新装版〕』、紀伊國屋書店、2006年、1頁)

また、日本三大SF作家の一人で『日本沈没』や『復活の日』で知られる小松左京は、なぜSFを書いているのか、SFの価値とは何かについて、次のように述べています。

それぞれの人間が「地球に発生した生物の一個体」という認識に立って知性を結集していかないかぎり、戦争も環境問題も貧困も飢餓も何一つ解決できないだろう。(『SF魂』、新潮新書、2006年、173頁)
自ら生み出した文明によって翻弄される人類。その認識を持つことからしか、理性やモラルの回復は始まらないという思いが僕にはあった。(同書、69頁)

ひとりの生活者としての視座ももちろん重要です。ですが、今の僕らにとって、小松左京のこの言葉は重要な意味を持っています。

人間という存在を相対化する視点から、自分たちを眺めること。
そこから次の一歩が始まるのではないでしょうか。


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