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レヴィ=ストロースが見た「社会のささやかな連帯が生まれる瞬間」

このnoteは、僕の著書『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』に入れられなかった文章や、関連する考察を中心に更新しています。記事を気に入って下さったら、書籍もお読みいただけるととてもうれしく思います。

文化人類学者・哲学者のクロード・レヴィ=ストロースは主著『親族の基本構造』の中で、フランスのこんな風景を取り上げています。

ワインを注ぎ合う

南フランスの、決して高級ではない大衆食堂。この店では、ワインの料金があらかじめ食事代に含まれており、客一人につき、一杯分のワインが入ったボトルがテーブルに置かれる。

しかし、客は自分のグラスには決してワインを注がない。

客は皆、自分のテーブルに給仕されたボトルのワインを、隣のテーブルの客のグラスに注ぐ。隣の席の客が見ず知らずの人だとしても。

そしてワインを注がれた客は、今度は同じように、自分のボトルからその相手にワインを注ぐ。

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このように、フランスの大衆食堂では、客同士の間でワインが「贈与」されるわけです。

一杯のワインを贈与された客は、その相手に返礼としてワインを注ぎ返します。

しかし、こうした「献酬」というのは、その場だけ見ると「交換」にしか見えません。しかも、むだな交換のようにも見えます。

そもそも、この交換そのものにはまったく「意味」がありません。同じワインを交換したところで、得も損もしないわけですから。言ってみれば「むだ」な行為なわけです。

交換に見せかけた贈与

なぜ、このような一見無意味でむだな「献酬」という制度が採用されているのか。

それは「交換に見せかけた贈与」によって、人とのつながりを生み出すためです。

かりに、僕らがフランスを訪れ、その大衆食堂で食事をしたとします。

慣れない異国の地で、おそるおそる注文をすると、頼んでもいないのにボトルに入ったワインが目の前に置かれます。

飲んでいいのかな……?と迷っていると、いきなり横のテーブルの人からワインを注がれるわけです。

そして、そのお返しに今度は自分のボトルのワインを返礼する。

そのあと、何が起こるでしょうか。

きっと、何らかの会話が促されるはずです。

「どこから来たんだい?」とか「この店は生ハムがおいしいんだよ」とか、再返礼としてのコミュニケーションが自然と起動するでしょう。

二つの瓶は同じ量で、中身も同じ質のものである。結局のところ、繰りひろげられるこうした光景の参与者は皆、決して自分自身のワインを飲んだ場合以上のワインを受け取りはしない。経済的観点からみれば、誰も何も得をしないしまた損もしていない。しかし、交換自体の中には交換されるもの以上のものが存在するのである。(『親族の基本構造(上)』、番町書房、1977年、142頁)

レヴィ=ストロースがいうように、献酬には「交換に見せかけた贈与(=交換されるもの以上のもの)」が潜んでいるのです。

我々の社会フランスでは、名前と職業、社会的地位を知らない人々を無視するのが習いである。しかし、小さなレストランでは、そういった人々が一時間か一時間半の間にかなり親密な関係になり、一時的に同じ関心によって結ばれる。(同書、142頁)

つまり、一見不合理なワインの交換は、「それを媒介として、テーブル間に社会的関係を構築するための手段」だったのです。

「不合理性」が「返礼の義務」を生む

先日の記事「トイレットペーパー騒動と『贈与』」で僕らが確認したのは、「返礼」という契機によって贈与は「人とのつながり」を発生させるということでした。

だから、何かを手渡すことによってつながりを発生させる機能をもつものを贈与と呼ぶならば、贈与はそこで「何か価値のあるもの」が手渡される必要は必ずしもないのです。そうではなく、受取人が「返礼をしなければならない」と感じるものであれば、それは贈与となるのです。

そして、なぜ返礼の義務を感じるのかというと、その贈与が与えられることに何の根拠も正当性もないからでした。

これに対し、「物々交換」や「等価交換」にはきちんとした根拠と正当性、つまり「合理性」があります。双方が得をするという明確な利点があるからです。

トイレットペーパーの贈与も、よくよく考えてみれば不合理きわまりない。

経済的には自分が損をしてまでも、見ず知らずの人にトイレットペーパーを差し出すわけですから、受取人の男性の目には、その行為は不合理なものと見えるはずです。

双方にとってメリットのあるwin-winの物々交換や等価交換は、極めて合理的で、理解しやすい事象です。が、贈与はそうではありません。

受取人が感じるそんな贈与の不合理性が返礼を促すのです。

だから、ここで贈与概念をアップデートすることができます。

贈与は不合理でなければならない。
贈与が持つそんな不合理性が、受取人に対して返礼を動機づける。

不合理な贈与を通して、僕らは他者とつながることができる。
合理的ではないからこそ、そこに偶然のつながりが発生する。
不合理性が生み出す、その場かぎりのささやかな連帯。

だとすれば、「連帯」は、贈与の語法で語られるべきテーマと言えるのではないでしょうか。

そして、連帯の総体を「社会」と呼ぶならば、僕らが「社会」を語り、連帯を実装するには贈与という概念が不可欠であるといえます。

贈与はそのような可能性を帯びているのです。


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