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幸楽苑は思い出のスイッチ

祖母が亡くなった。二週間前に両親と妻とお見舞いに行った後に、体調を崩してそのまま還らぬ人に。

訃報は今日の夕方頃に知った。仕事の帰り際、六本木の幸楽苑でねぎ味噌ラーメンと餃子を食べた。なんとなく祖母が生きていた時を思い出したくなったのだ。

子供の頃、福島に帰省すると必ず幸楽苑でランチを食べた。祖母の家に車で行く途中、帰る途中、二本松の国道沿いにある幸楽苑に毎回寄った。ある時は祖母に会えるワクワク感を胸に、ある時はもう横浜に帰らなくてはいけない寂寥感を胸に。福島に帰る時は毎回寄ったものだ。

祖母は穏やかでいつもニコニコしていた。周りの親戚がよく喋るから、祖母が話す姿をあまり覚えていない。ただ、いつも訪ねるとそこにいた。いつも穏やかにニコニコしていた。ぼくらが帰る時はいつも「また来てね。気を付けて」と言ってた。

祖母は多くを語らなかったから、何を考えていたか、どういう人生観を持っていたかは分からない。ぼくが知っているのは、大正の世に農家の娘として生まれ、地主の息子だった祖父に嫁ぎ、一男二女を育て、孫が四人いて、そのうちの一人がぼくだという事くらい。祖母のことは大して知らないけど、ぼくには祖母の血が流れている。祖母が遺伝子のバトンリレーをしなかったら、ぼくは生まれなかった。

ここ四年くらいは、脳梗塞を患って以来ずっと寝たきりだった。延命の為に胃ろうをして、口から食事はできなかった。五体満足なぼくからすると、チューブに繋がれて話すことも食べることもままならない祖母が可哀想に見えた。祖母自身が実際にどう感じていたかは分からない。施設の壁や天井を見ながら、何を思っていたのだろう。もう知る術はない。祖母は旅立ってしまったから。

生きていることに大した意味はない。今でもそう思う気持ちはある。でも祖母が生きて、次の世代の母を生み、次の次の世代に生まれたのがぼくだ。仮に自分の人生に意味がないとすると、祖母の人生も意味がないことになってしまう。そうは思いたくない。祖母が生きた意味を作れるのは、今現在生きている家族だ。ぼくもいずれ土に還り、次の世代に意味を託す日がくる。進撃の巨人ほど過酷な世界ではないが、次の世代に何かを託していくのは現実世界も一緒だ。

もう祖母はいない。祖母が住んでいた家も、もうない。祖母を思い出す手掛かりは少なくなってしまった。そんな中で、幸楽苑のラーメンは数少ない思い出のスイッチなのだ。お店の場所が六本木だろうが、25年以上前の福島での日々が蘇った。また、たまに食べに行こうと思う。ぼくが思い出している限りは、祖母の存在は消えない気がするから。

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