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自動翻訳ができても、外国語を覚えるメリットはなくならない

たとえ自動翻訳ができても、自ら言葉を覚える意味はなくならない。転職前にヨーロッパで旅をしていて、ぼんやりとそんなことを考えていたのだが、twitterでびよんど@ドイツさんとやり取りする中で、やっぱそうだよねと思ったので、書いてみる。

外国語を覚えて、自らの頭と耳と口を駆使して話すことには3つ大きな意味があると思う。

1. 相手が心を開いてくれる
2. その言語特有の思考回路を体感できる
3. 理解できる情報の量と質が段違いに上がる

一つ一つ事例をあげて書いてみる。

1. 相手が心を開いてくれる

このツイートだけで、ぼくの言いたいことは十分表現されているのだけど、もうちょっとだけ作文してみる。

ぼくは日本語を積極的に話す外国人に好感を覚える。そして、同じように感じる人はきっと多いはず。なぜそう感じるか。それは「自分の世界を知りにきてくれている」と感じるから、嬉しく思うのではないか。世界をどう認識するかは普段使う言語に規定される部分が大きい。どういうことか。

「切ない」という言葉を英語で説明しようとしたことがある。しかし、該当する言葉を英語で探しても見当たらないのだ。SadとかHeartbreakとかPainfulていうと、なんか大げさ過ぎる。「悲しみっぽい感情」という素材は共通しているのだけど、 味付けがもっと繊細な感じと言えばいいのだろうか。「切ない」も"Heartbreak"も失恋の局面で選択される言葉だと思うけど、失恋という外的刺激が感情に変換される時に、違うアルゴリズムが走ってる感じがするのだ。その「外的刺激を感情に変換するアルゴリズム」に、「言語」は相当強く影響している。

言語は人間が世界を認識するために必要な色メガネ。自分の母国語を覚えてもらえるのは、「ぼくが掛けている色メガネをきみも掛けてくれるんだね!」的な仲間意識が芽生える。だから、外国語を覚えると、その国の人が心が開いてくれるのだと思う。


2. その言語特有の思考回路を体感できる

ヴェネツィアでイタリア人の友達と話している時に、「話す言語が変わると自分の人格が入れ替わったような感覚になるよね」という話題で一通り盛り上がった。友人とは英語で会話していたのだが、店員さんとイタリア語を話してる様子を観察していると、明らかに陽気度が増して見えた。何を話しているかはさっぱり解らないのだが、イタリア語で話している人達はとにかく陽気で楽天的に見えるのだ。

ちなみに、ぼくが英語で話す時も思考回路がつなぎ変わる感じがする。日本語で話していると、「よしなにやっておいて」とか「まあそこはいい感じで」とかいう表現をする。でも、英語ではそんな曖昧な表現はなく、主語も目的語も、賛成も反対も、好きも嫌いも明確な表現ばかり。英語で話していて何かをきちんと伝えようとすると、5W1Hが明確にならざるを得ず、強制的に自分の思考も明確・厳密になっていく感覚がある。

言語を切り替えることで、違う人格を体感できるのは純粋に面白い。ちなみに、プログラミング言語も思考回路を強烈に規定する。ソフトウェアエンジニアがやたら「定義」「範囲」に厳密なのは、彼らが普段会話するコンピュータが「いい感じに」「よしなに」では全く動いてくれないから。最後は0 or 1の電気信号でしかコンピュータは判断を下せないので、厳密にならざるを得ない。


3. 理解できる情報の量と質が段違いに上がる

メディア・インターネット上で収集できる情報が日本語に偏ると、思考・見識も偏っていく。そこに英語が追加されるだけで、ものの見え方が変わるはず。これが情報「量」が増えるメリット。

そして、もう一つ情報の「質」について。これは上級者に到達したら実感するはず。例えば、ミーティングやランチの場で物凄い議論・思考が深まって、自分のものの見え方がアップデートされる。そんな経験を日本語でしたことがある人は多いと思う。議論が盛り上がった時に出てくる情報って、「対面で」「本当に分かってくれそうな人相手」にしか出されない。「ネット上になくて、自分しか持っていない情報」はそれだけで価値だ。

仮に同じことが外国語で出来るのだとしたら、希少価値は更に上がる。それだけで差別化要因になる。外国語が上級者クラスになって、その国の人と対面で話して、自分にしか得られない希少な情報を収集できる。正直、自分はまだ上級者には程遠い。が、希少な情報を収集できるメリットはかなり大きいと思っているので、英語学習を再開してる。自分にしか取れない一次情報を英語で取れるようになりたい。

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