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明大前のスープストックトーキョーで100パーセントの女の子に出会うことについて

好きな作家との出会いについて思い出してみる。芥川龍之介とは『鼻』、ヘルマン・ヘッセとは『少年の日の思い出』、山田詠美とは『Sweet Basil』、村上春樹とは『パン屋再襲撃』、カズオイシグロとは『日の名残り』を通して出会った。

出会いのかたちはそれぞれだった。勧められたもの、国語の教科書で読んだもの、模試の問題文だったもの、たまたま手に取ったもの、賞を獲得したことで知ったもの…

しかし全ての本に共通しているのは、読んでみるまでその本を好きになるかどうかわからなかった、ということだ。星の数ほどある本の中から、複数の偶然を経ていくつかの本と巡り合り、時に恋に落ち、時に失望する。私に本当の意味でぴったりの本とはまだ出会えてない可能性はもちろん高いが、このように偶然に偶然を重ねて私の手元にくることとなった本を愛せるというのは、それだけで素敵なことだと思う。

香水も、本のそれに近い出会いがあるように思う。ある香りの本当の良さを理解するのには、とても時間がかかる。店頭で香りを試したとしても、あるいは試供品を貰ったとしても、それはファーストインプレッションに過ぎない。その香りとともに時を過ごしていくうちに、だんだんと香りが持つ本当の顔が見えてくるようになるのだ。その香りを本当に愛せるようになるには、少なくとも1つか2つの季節を必要とする。

短時間で的確に消費者の好みの香りを届ける仕組みを考えることも素晴らしいと思うが、私はこういった香水とのアナログな出会いがとても好きだ。ブランド戦略とは全く別の話として、私個人としては、たまたま訪れた香水とはあまり関係のない場所で、たまたま私の香水に出会い、その場では購入しないが気になってしまい、少しずつ距離を縮めていき、何かのきっかけで(ボーナス、給付金、恋人ができた、フラれた、虹を見た、星型のピノが入ってた、夢の中でカエルに買うよう勧められた…なんでもいい)購入に至り、その後ゆっくりと関係を深めていく、といった巡り合わせをして欲しいと思う。そしてもちろん、幾つかの季節を共に過ごした上で、私の香水を心から好きになってもらえるのならこんなに嬉しいことはない。私自身も、香水とそういう関係でいたいと切に思う。

こんなことを書いていたら、ふと村上春樹の短編小説『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』のことを思い出した。不思議なもので、今朝起きた時には、『カンガルー通信』という別の村上春樹の短編小説を読み返したいと思ったのだが、夜になって私は、先述の短編小説を読んでいる。これら2つの短編小説は、短編集『象の消滅』の中で、隣同士で収録されている。

四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う。

から始まるこの短編小説では、1981年4月に、100パーセントの女の子とすれ違った時に、どのように声をかければ良かったか、ということについて書かれている。

もちろん今では、その時彼女に向かってどんな風に話しかけるべきであったのか、僕にはちゃんとわかっている。しかし何にしてもあまりに長い科白だから、きっと上手くはしゃべれなかったに違いない。このように、僕が思いつくことはいつも実用的ではないのだ。
とにかくその科白は「昔々」で始まり、「悲しい話だと思いませんか」で終わる。

この実用的でない科白が気になる人は、ぜひ本を手に取ってみてほしい。とても短い短編小説だ。

出会いはそれだけでストーリーとなる。先述のような出会い方であれば、私の香水を買う人の数だけのストーリーが生まれる。そうだとしたら、香水そのものにストーリーなど必要なのだろうか?使う人が個別に、私の香水との間に物語を紡いでくれるのが一番素敵なことだと思う。

私が大学2年生の時だったと思う。京王線の明大前駅の中にあったスープストックトーキョーで、部活の友達と一緒にスープを飲んでいたら、斜向かいに、きっと私にとっての100パーセントの女の子が座った。残念ながら、私はその時にはまだ、この短編小説を読んでいなかったため、どのように声をかければ良いのかわからなかった。

そうなんだ、僕は彼女にそんな風に切り出してみるべきだったのだ。

そうなんだ、あのとき私は、彼女にそんな風に切り出してみるべきだったのだ。

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