いつも僕らはメディアに興奮している
Clubhouse が爆速で普及していますね。聴覚メディアが一気に活性化し、ラジオ文化がまた再燃し、ラジオのパーソナルメディア化につながり、たぶん、次のタレントを生み出すことを期待している。YouTubeのおかげでテレビ文化の多様化を生んだように。
Clubhouse の登場で個人的に嬉しかったのは、SpaitalChat や Miro 、Remo のようなパソコンと身体がニコイチでいないといけない環境から、移動しながら参加できるメディアであったこと。場所を気にせず、だれでもやりとりができる。人によっては、メタ身体からの解放というと理解する人もいるのか。聴覚メディアの再発明とも捉えている人もいるのだろう。
また招待制であったことが普及の秀逸さだったと思う。僕くらいの世代になると、Mixiの招待制を思い出した人もいる。そして、FacebookにClubhouse に加入したことを投稿はソーシャルメディアが改めて社会インフラであり、現代のコミュニーケーションにおいてソーシャルメディアが欠かせないことも面白い時代になったことを実感した。そして、そのことを僕はnoteに書いていることも面白いと思う。
聴覚メディア、黎明期の興奮が冷めやらない今改めて書いてみる。
2020年の前期で非常勤講師でメディア概論を担当したときに、コミュニケーションとメディアの関係について、俯瞰的に整理をしていたこともあり、今回はこの話題にしよう。
そもそもメディアとは、Wikipediaによると、以下のような記述がある。
メディア(media)とは、情報の記録、伝達、保管などに用いられる物や装置のことである。媒体(ばいたい)などと訳されることもある。記録・保管のための媒体とコミュニケーションのための媒体とに大別することができるが、両者には重なりがある。
個人的には、人と人との間に介在する伝達手段であったり、人の機能を拡張させる道具であったりもする。人はメディアとの距離を自由自在に扱うことができ、また、人は熱狂し悲観することもあるものがメディアとして捉えている。去年はメディアで傷ついたニュースも多く見かけた。
いろいろな名著があるけども、ヒトとモノとの関係に興味がある方には融けるデザインなのはどうだろうか。
メディアに感情を許したり、意思を乗っけたりと、僕らはメディアがないと生きることができないことは明らかだと感じている。そしてメディアが時代に色濃く残り、メディアが時代を変えるときも多い。
いつもその議論になるときに冷静にあるのは、人は機能的には変わっていないが、メディアやメディアの概念が変わり続けているということ。つまりはメディアリテラシーも変わり続けて更新し続けている。
そして、人はどうするべきかは明らかで、専門性をもって、変わろうという意思を持って、変わり続けることが重要となる。では、ここでいう「変わる」ということはどういうことか。
個人的には、信念が変わってもいいし、友人が変わってもいい。変わって欲しくないものだけ変えなければいいと思う。誰も答えがないし、誰でも答えがある。
さて、Clubhouse の普及で改めて「人は繋がりたい」という本質が見えてきた。無言で1000人友達作るルームがあったり、昨晩からずっと話している人もいる。このサービスがもたらした感動は当面は続くし、やり続けているとまた次が見えてくる気がする。
マスメディアとパーソナルメディアがそれぞれの成長を遂げるとともに、マスメディアの鈍化が始まることもまたこの時代のような気もする。そして、呼吸するようにnoteに想いを綴るように、ずっとこうやって、僕らはメディアに興奮し、メディアとともに生き続けるのだろう。
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