見出し画像

蒲公英の一輪挿し/ショートショート#月刊撚り糸

【524】

遠くから微かに声が聞こえる。
「お母さん、お母さん」
誰だろう。私のことを何度も呼んでいる。

お母さんと呼ぶ声が時折「佳乃」と名前で呼ぶ声に変わる。
それは懐かしい香りが籠ってて、吸い寄せられるよう。確かに聞えるその名を呼ぶ声がだんだんと遠くなる。

ねぇ、行かないで。そう手を伸ばす。不思議とその手はぐんぐんと伸びていくがどうしてもその声の方に届き掴むことが出来ない。

そのうち変わるようにお母さんと呼ぶ声が再び近付いて来る。
今夜が山場だと医者から宣告されたせいで、娘夫婦と孫夫婦が病室に来てくれていたらしい。
声の主は娘の春乃だった。涙を浮かべ必死に最後などやって来させるものかと呼び続ける。
「ああ、お母さん良かった。私よ。わかる?」うっすらと開けた視界は薄暗い夕暮れ時。
頭の向きを変えることなく視点を左右させる。安堵の表情で各々が染まる。それだけ確認すると目をそっと閉じる。
もう見開くことの出来る体力などないのだ。

春乃が私の皺だらけの手を強く握る感触がある。意識が遠くなって行く。

「私ね、ずっと大好きな人がいるの」声になっていただろうか。
なんとか春乃は聞き取ってくれて答える。
「お父さんだよね。お父さんが向こうで呼んでるのかな?やだよ、まだ行かないで」
違うの。
お父さんじゃない。

こんなふうになった今でも思い出す愛しの人は別の人なの。
ずっと誰にも言えないまま愛していたあの人のこと。

◇◇◇

私はある男性と恋に堕ちた。許されることじゃない。それを認めて欲しいとも思わない。

でも、どうしようもないぐらいに強引に攫われるように。あなたは若く荒々しく愛の在り処を探すかのようにして。
あなたは私が何を思うかよりも自分がどうしたいのかということだけをひたすらに求めた。そんなの受け入れられないよと私は諭したことがあったけれど、あなたはそんな私の声も振り払いただ自分の気持ちだけに正直に生きていた。

「佳乃は今のままで幸せなのか?」

恭平はセックスを終えてすくっと立ち上がり唐突に言ってからふぅと息を吐く。
そう吐き捨てるような言葉をこのタイミングで私に突き付ける。
暗がりのホテルの一室。
あなたが愛したいように躰を捧げたばかり、まだ呼吸も荒い。擦りつける様に重ね合った唇も、粘膜を絡めるような口づけも交わした。
一方的ではなく、確かにあなたのそれに私も呼応するが如く応えた。

今まで味わったことのない快楽は不安を取り除き女としての私を呼び戻してくれた。
30代が終わる少し前、1年間だけ私と恭平は何度も愛し合った。

”幸せなのか?”の問いの真意はわからなくて曖昧な返事をぼそっと返す。自信無さげにただ「うん…」と一言。
恭平との時間はカラカラに乾いた心を鮮度の高い水で満たして潤わせてくれる。なんなら私の幸せはそこにはあった。

でも、あなたの言う幸せは実生活の方をあたかも指しているようで「お前はそれでいいのか」と言われてるようで。
いいと思うわけはない。
でもそれは今までならそれでいいと、仕方ないと思っていたこと。

恭平の存在がそれを幸せではないと知らせてくれたし、間違っていると正してくれた。
でもそれが良かったのかはもう私にはわからない。

25歳で旦那の敬二と結婚した。
学生の頃に交際して一度は別れたのだが、私の職場へ営業で回って来たところ再会した。
いがみ合って別れたでもない学生時代。互いに大人びた姿に惹かれ合い再び恋を実らせ1年あまりで結婚をした。

もともと仕事人間ではあった敬二は結婚して1年後に娘を出産してからは仕事ばかりで家庭を省みないほどになった。
ただ生真面目なだけなんだとは思う。ただ、大切にしていたのは家族ではないことは感じた。子供が泣こうと構うことはなかったし、保育園の行事にも参加することはもちろん、関心を持つこともなかった。

それでも時おり育児について相談したけれど、あからさまな不機嫌な態度をされ、それが諦めになり心の距離も遠ざけていった。

たまに帰宅しては私と子供の寝る寝床に潜り込んで躰を求めることはしてきた。
それでも必要とされているのであればと私は応えたが、乱暴にされることが増えてどこか恐怖心のようなものが芽生えていた。

恭平と出会ったのはパート先のドラッグストア。娘の春乃も中学生になり子育ても落ち着いたこともあり、久しぶりに家庭以外の場で空気を吸う様な日々を過ごしていた。恭平は就職先の内定を手にした大学4年生。この年になるとほとんど学校へ行くことはなくなっていた。

私が入るより先にここでバイトをはじめたらしいが、さほど周囲のスタッフと積極的にコミュニケーションを取るタイプではない。
シフトが一緒になることが多かったが私とも話すことはあまりなかった。
ある雨の日に店の前で立ち尽くす彼にたまたま声を掛けてから少しずつ状況が変わることになる。

「恭平くん傘持ってないの?」
「今日って雨予報でしたっけ?」
普段見せない少し照れ笑いを見せて答える。
「ううん、違ったよね。私ロッカーに置き傘もう1つあるから良かったらこれ使って」
そう言いながら彼の手を取り私の傘を手渡して、ロッカーへと戻った。

3日後シフトがまた同じになったけれど、彼は店内で私に声を掛けることはしなかった。仕事を終え、外に出ると傘を持って待つ恭平を見つける。

「これ、ありがとうございました。あれから雨が強くなったので助かりましたよ」
傘と一緒に何やら小さな紙袋を渡された。
「これは?」私が聞くと、
「美味しいクロワッサンのお店で買ったんです。お礼ですよ」
少し自慢気に言う表情は先日とは違う新たな彼を見れた気持ちにさせた。
袋の中を覗くとまだ焼き立ての温もりとバターの香りが顔全体に包む様に立ち込める。
「ごめんなさい、お店に残っていた最後の2つになってたので袋の中には2つだけしか入ってないんですよ」
申し訳なさそうに恭平が言うのがなんだか可愛く思えて袋から1つ取り出して恭平にクロワッサンを渡す。
「いいじゃない。私と恭平くんの分あるじゃん!食べながら帰ろう」
「いいんですか?」
「いいも何も私がもらった方だよ。いいよ、食べよ」
有名店だけあって確かな味わい。二人が口にするとパリッと音を立てて、口内には香るバター味が広がる。
「うわぁ、美味しい!」
「でしょ?良かったぁ」
恭平は思わず笑う。

「俺、こんなふうに人に贈り物なんてするの初めてかも」
ポツリと呟く。
「へぇ、そうなんだね。じゃあ、もっと味わって食べておけば良かったよ」
おどけて私が言う。
「でも、嬉しい。そんなふうにしてもらうなんてどれぐらいぶりだろう」
遠くを見詰めながら秘めた私の声が漏れる。
「佳乃さんはご主人から贈り物とかされないのですか?」
「もう随分とそんなことないよ。もう仕事ばかりでほとんど家にいないですから」
知らない間に恭平に気を許している自分がいることに気付く。
「それじゃ私はこの辺で」

そう告げると私は私の帰るべき場所へと向かう坂道へと歩く。
そのとき恭平が何か伝えようとしていたことには感付いたが、それを見ないようにして私は歩き出した。

バイトのシフトはそのあとも偶然重なることが多く、そのぐらいから帰り道を二人で歩くことが増えた。
それはもう隠しようがない気持ちをギリギリのところで保つので精一杯で。
時おり恭平はあのクロワッサンを買ってきてくれたりして、私のことをとても気遣ってくれた。その度に嬉しそうにする恭平の笑顔を見るのが私の唯一の至福のとき。

ある日戸惑いながら恭平が言った。
「ごめん、今日はなんにもなくてさ」
「いいのいいの!そういう気持ちだけで嬉しいし、そんなふうに気を遣わないで」
私はそうやっておどけた。
どこかそんなことを言われても恭平は寂し気な顔をしている。

「あ、ねぇ見てよ、蒲公英これすごい綺麗」
そう言うと道端にしゃがみ、ぶちんとその蒲公英を取り私に差し出す。
「きっと部屋に飾ればそれだけで元気になれるよ」
恭平は両手で包むようにしてそれを私に渡してくれた。
「綺麗ね。蒲公英をこうして間近で見るなんて久しぶりよ」
「へへ、良かった。俺さ、佳乃さんに笑ってもらえるのがすごい嬉しいんだ」
「どうして?私なんかにそんなふうに思うの?」
「だって、佳乃さんは綺麗だし。でもなんだか寂しげにしてるから笑わせたいなって思うんだよ」
少し恭平の顔つきが真面目になり、こちらを見つめる。
「やめてよ、そういう優しいの慣れてないんだから」
「優しくしたら迷惑ですか?」
いつになく恭平の口調が強い。
「迷惑って。そんなことないよ…ありがとう」
「良かった。俺、佳乃さんのこと好きですよ」
あまりに自然に言われたものだから反応に戸惑った。
恭平が立ち止まりこちらをじっと見ていることに気付く。
「佳乃さんはどう思ってるの?」
感情の赴くままにぶつけられる質問が針の様に刺さる。
「恭平くん、私は結婚してるのよ。子供だっている」
必死に平静を装い答える。
「だからなんですか」
だからって。ダメでしょ。やめてよ。
うつむき下を向く私の顔を覗き込むようにあなたは私の唇を奪った。唇で体温を感じるなんて何年ぶりだろうか。
「俺、好きですから」
そう言うともう一度あなたは私に口付けをした。

一度狂い出した歯車は猛スピードで。
私は堪えて来た躊躇いを取っ払っていた。
アルバイトのシフトが入っていないときは恭平と会っていた。
敬二は留守がちだったが、春乃は年頃になっていたので出掛けるときはアルバイトだからと伝えることが増えた。それは勿論嘘の理由。

会う回数を重ねるごとにあなたの求め方は激しくなる。むさぼるように私のことを求め、私の知らない私の姿を引き出していった。
女性経験が少ないと言うのが信じられない程に繊細な愛撫と、ときに強引さが私の心と躰を支配していった。
支配だなんて言っても嫌な気持ちはない。
恭平に愛されて求められることが幸せなんだと本当に思い始めていた。

女同士って本当に不思議なもので、例えそれが母子だったとしても察知する能力は備わっているのだろう。

「お母さんって最近なんかいいことあったでしょ?男でも出来たの?」
どこでそんな”男”なんて言い方を覚えたのだろう。少し悲しい気分にもなった。
「何よ突然。しかも男って、お父さんがいるじゃない」
「だってテレビでも不倫とかの話題多いじゃない。以前より明るくなったとか、メイクや服装が変わったとかでわかるんだって」
「だからと言ってそう決めつけるものでもないでしょ?」
少し言い方が女同士の言い争いみたいな空気になる。
「だって、お母さん帰りが遅いことも増えたしケータイ見ている時間も絶対に前より多くなったもん…怪しいって」
「春乃!お母さんになんてこと言うの!」
「いいんだよ、なんでもないなら。でも私、お母さんがそんなことしていたら許さないから」
見透かされているのか、どこか宣告をされたようだった。

春乃の言葉がどうしても頭から離れない。

バイト中にもそれが気になって珍しく発注ミスをしてしまい店長から「らしくないミスだ」と慰められた。それを恭平は遠目で見て気にしているようだった。

帰り道、いつものようにあなたと2人で歩く。なかなか言葉が出てこない。
「何かあった?」
痺れを切らして恭平から話しかける。
「うん、ちょっとね。やっぱりダメだなって」
「俺といるのが?」
「娘とね、ケンカしちゃって。お母さん不倫とかしていたら許さないからって」
「え?俺たちの関係を娘さんは知っているの?」
「ううん、知らないはず。だけどやっぱり女の勘って働くんだろうね」
「そうか。それじゃ聞くけど佳乃さんはもうこうやって会うのはやめようって考えているの?」
「わからない…でも娘の言う通りだなって思う」

あなたはいつの間にか手にした蒲公英を私に差し出す。
「そんな顔しないで。蒲公英を部屋に飾って気分を明るくしてみたらいいよ」
「ごめん、受け取れない。今そんなものを持って帰って飾ったりしたら本当に娘から追及されちゃう、ごめんね」
そう言うと一人足早に歩き出した。

あなたは右手に摘まんだ蒲公英をだらりと下げて呆然と見送るだけだった。

翌日、私はドラッグストアのアルバイトを辞めた。

1ヶ月ほどは恭平から連絡もなく、平穏と呼べる毎日が戻っていた。

私はただ「これでいいんだ」と自分に言い聞かせるようにしてくらす。
あれ以来、春乃から《不倫》というワードを聞くことはなくなった。以前の様なくだらない会話も戻る。

次のバイト先を探そうと時々はケータイをチェックする程度になり、特定の誰かとやり取りをすることはなくなった。
登録してあるお店から届くLINEの通知音は結構な頻度で響く。それを何気なく見ていると見逃していた1つのLINEを見付けた。
恭平からだ。届いたのはもう1週間も前。

「佳乃さんがいない毎日はずっと呼吸が出来ないみたいだ。あの温もり、あの滑らかな肌触りが忘れられない。もう一度会って佳乃さんに触れたい。愛していると伝えたい。部屋には毎日蒲公英を一輪飾っているんだ。小さな瓶に水を入れてね。それを見ながらいつも佳乃さんを想っているから」

見なかったことにしたかった。そうしないと気持ちが揺らいでしまうから。でも同じ文章を繰り返し何度も呼んでいる自分がいる。
返信をしていいのか悩んでしまう。
戻れなくなってしまう危機感。それが強かったから。

そうしているうちに新しいLINE通知が偶然届いた。恭平からのものだった。
「今すぐ会いたい」
それだけの一文。
もう止められなかった。もう一度だけ。
これでもうおしまいにすると決めて
「今から会いに行くね」と返信する。

それを愛と呼ぶのには荒々しすぎて。
欲だけに覆われた私とあなたの躰は会えなかった時間を埋めるように爪先から脳天までをくまなく互いに愛撫した。
何度「好き」と言っただろう。
何度「ごめん」と呟いただろう。
あなたの熱いものを何度も受け入れて、何度も果てた。
これが最後だと決めていたのはきっと私だけ。私の覚悟が揺らがないように、それだけは必死に自分の本心にしがみつきながら堪えていた。

「佳乃は今のままで幸せなのか?」

幸せってなんだろう。
こうやって求めてもらうことだろうか。それとも家族を裏切ることなく生きる事だろうか。

ハッキリは答えなかった。
でもきっと恭平なら私の気持ちに気付いてくれるだろうと思い込んでいた。
さよならは言わなかった。
また会いたいとも思うことはしなかった。

ただ、あの日で私と恭平が触れ合うこともなくなった。短い愛の時間が過ぎて、散った。

やがて40代になり、50代の越えて”ただ生きる”だけの毎日が過ぎて行った。

敬二は確かに仕事ばかりの人間だったが家族に経済的な不自由をさせることはなかった。
そして私とは違い、浮気などして来なかったと感じていた。

老いを重ねるごとに若い頃とは違い夫婦でいる時間も増え、会話も増えた。
何より敬二自身も変わろうとしてくれたのだと思っている。
そんなある日、敬二は事故に合いあっけなくその夫婦の時間は終わった。夫として敬二はしっかりと最後まで全うしてくれた。私はそれが出来ただろうか。

一人になってからはまた何もない毎日が続いた。
味気ない生活に彩りがあるといいねと春乃が言っていたので私は部屋に花を飾ろうと考えた。
夕飯の買い物に出た帰りに
「そうだ!花を買って帰ろう」
そう閃いたらなんだか嬉しい気分になれた。
買い物からの帰り道を少し遠回りして歩く。
この通りの角を曲がれば小さな花屋があったはず。と、曲がろうとするそのとき向こう側から歩いて来た青年と出合い頭にぶつかりそうになった。
青年は会釈して詫びながら去っていく。そのときふと視線を下げると一輪力強く咲く蒲公英を見つけた。

記憶が甦る。

恭平とのこと。あなたに久しぶりに会えたようで嬉しくて、その蒲公英の花を撫でる。

それを摘んで私は部屋に一輪挿しにして飾った。

◇◇◇

再び閉じた瞳は二度と開くことはなかった。
最後に愛してくれた人のことを思い出して逝くなんて私は幸せだ。


「ずっと好きな人」あなたのこと。
あなたを深く傷付けたことも知っている。
後悔したままずっと今日まで来てしまった。懺悔。きっとそんな十字架を背負うことしか償いは出来ないとでも考えていたのだろう。

確かにあなたの愛情を感じていた私がいる。
それは間違いなく私に愛される悦びを教えてくれた。もうすぐ終える道のりの先へあなたから受け取った愛を胸に行こうと思うの。

あなたはこの光の向こうにいてくれるだろうか。
もし叶うならもう一度あなたに愛されたい。

そのときにはまた蒲公英の花を私に差し出して欲しい。

画像1


#花を買って帰ろう

サポートして頂けるなんて本当に感激です。その気持ち、そのひと手間に心から感謝します( *´艸`) たくさんのnoteから見つけて下さりありがとうございます!!