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すべてうまくいきますように

やはり2023年が終わる前に書いておこうと思う。今年のベスト映画。

わたしはちょくちょく映画館に行く。今年はBunkamuraが休館中なので少ないかと思っていたけど、ふりかえると2ヶ月に一度ほどのペースだから、思ったほど減ってはいなかった。

そんななかで、わたしがベスト映画に選びたいのは今年の2月に有楽町まで観に行ったフランソワ・オゾン監督作品「すべてうまくいきますように」だ。

芸術や美食を楽しみ、ユーモアと好奇心にあふれ、何より人生を愛していた父が突然、安楽死を願う。脳卒中で倒れたことがきっかけだが、治療の甲斐あって順調に回復しているにもかかわらず意思を曲げない父に、二人の娘たちは戸惑い葛藤しながらも、真正面から向き合おうとする──。(中略)最期の日を決めた父と娘たちの前に、様々な人々が立ちはだかる。サスペンスフルなストーリーテリングを得意とするオゾンが、緊迫感に満ちた展開の先に用意した、想像を裏切る結末とは──?

映画の公式サイトより

この映画では、公式サイトの説明文のとおり、脳卒中がきっかけで安楽死を決意した父アンドレとその娘たちとの葛藤が描かれている。登場人物たちの人生にたいする真剣な思いが交錯し、それはときに感傷的に、ときにコミカルに、スクリーンに映し出される。その揺れ幅の大きさが人生そのものを象徴している。

安楽死あるいは尊厳死についてはかなり前から議論されていて、近年はクオリティ・オブ・ライフを優先させた終末期医療で消極的に認められつつある。一部の国ではより積極的に死を選べるような法整備がされていて、この映画に出てくるような安楽死を支援する団体のあるスイスが代表的だ。自由の国フランスでさえ安楽死は違法なのだから、いかにむつかしい問題なのかがわかる。

映画のなかでは、具体的なプロセスやコストまでがていねいに描かれていて、なるほどそうなっていたのかと勉強になる。ほかにもあるのかもしれないけれど、映画に出てきたのは2種類の薬物を服用することによって穏やかな最期を迎えるというものだった。

わたしは無邪気な思いこみで、安楽死といえばドクター・キリコが使っていたような大型の機械でされるもののような気がしていた。それは半世紀前のマンガの話。そんなはずはないよなぁなどと納得した。

手塚治虫『ブラック・ジャック』より

人の死は多かれ少なかれ身体的な苦痛を伴うものだろう。老衰で文字どおり眠るように永眠できるのはごくわずか。そうすると自分で穏やかな死を選ぶ権利があっても良いのではないか。元軍医のドクター・キリコの主張にも一理あるなと思っていた。

よく人の死に際して、“死生観”という言葉が聞かれる。ここには“生”という字が含まれているとおり、死ぬことと同時に生きることもが入った概念。人の命について考えれば生と死は表裏一体だから、どう死ぬのかはどう生きたのかということだ。

西洋や中東の一神教の世界では生前のおこないで死後の評価が決まり、東洋には輪廻思想がある。いずれも未知なる死後の運命を想定しどう生きるのかといった規律につながる考え方だ。

みずから死を選ぶことについては、いつのどの世界でも歓迎されることではない。むしろ禁忌である。戦場であっても最終手段だ。タブーだからこそ、文学などでは美化されることもある。自死をあつかった文学には裏返しの生命讃歌がある。

半世紀ちかく生きていると、いろいろと見聞きすることが多くなって、わたしのようないわゆる氷河期世代ど真ん中だと、自死した知人がちらほらいたりする。身近に自死があった際、スイスのように合法的な安楽死があればどうだったろうと考えをめぐらせてきた。

思えば中学生のときから漱石の『こころ』やゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んでいて(当時はなにかの課題図書になっていた)、自死については考えてきたつもりだった。しかし過去の文豪の作品にある死はどこか象徴的で身近な感じがない。大学生の時に読んだコエーリョの『ベロニカは死ぬことにした』は等身大のリアルな話だった。

それ以来、どこかでみずから終わりを決めて残された時間をどう過ごすかというのが、ある種の理想的な生き方なのかもしれないと考えるようになった。べつにいつ死のうと決めているわけではないのだけど。

だからこの映画の公開が決まったとき、観に行かなくてはと思っていた。安楽死の具体的な形、その現実的な部分も精神的な部分も知ることができる、あらためて考える機会になるとの関心があったからだ。

この映画では、安楽死というテーマをあつかいながらも重々しさはあまり感じられなかった。それは主人公アンドレが妻と不仲だという設定や、娘のエマニュエルとの日常的なやりとりが、よくある親子の人間味あふれるドラマとして楽しめるからだろう。

それだけではない。父の希望する安楽死をめぐっては、心変わりに期待する娘がその希望を叶えられるよう表向き協力的にふるまう。安楽死が違法なフランスでは警察による“妨害”があり、父を死なせたくないはずの娘はいつのまにか無事にスイスに渡れるよう奔走する。そんなストーリー展開もこの映画を重々しくさせてはいない。

映画の公式サイトが結末を伏せているのでこれ以上は書かない。結果として人生を終えるひとつの方法として安楽死という仕組みがあること、それでいていかに人生は面白く豊かなものなのかを鑑賞者に示している。

自分の親や家族が安楽死を希望したらどうだろうか。あるいは自分が安楽死したいとしたら、家族やまわりの人びとはどう感じ、どう支えてくれるだろうか。自分に置き換えてそんなことを考えた。

昨年9月に安楽死で生涯を閉じたジャン=リュック・ゴダールのことがどうしても頭によぎる。ゴダールの周辺もこの映画のような感じだったのだろうか。

誰もが知る巨匠ゴダールの場合、安楽死支援団体の関係者にもファンはいたことだろう。もし熱烈なファンが、本人の安楽死のサポートをすることになったら?すごい葛藤とストレスだろうと思う。

この「すべてうまくいきますように」の国内の公開は今年のはじめだったけれど、フランスではゴダール逝去の前だった。ヨーロッパの映画ファンはもっと両者を関連づけて捉えたに違いない。

監督のフランソワ・オゾンも安楽死を選ぶのではないか・・・と、そんな気がした。人生も芸術家の自由な作品そのものになり得るし、映画というストーリーの作者だからこそ満足いく形で締めくくりたいはずだ。

いまの自分には金銭的にも制度的にも安楽死を選ぶことは現実的ではない。けれど、仮に将来に希望がなくなり、もろもろの条件が許すのであれば、わたしは安楽死させてほしい。

自分の意志で、健康なうちに責任をもって人生を終えるのは究極の自由だと思う。彼の最期こそ自由で充実したものだった。まわりにそう思ってもらえる日は来るのだろうか。

じつはこの映画をとおして得た最も大きなことは、こうしてみずから人生を終えることについてのタブー感を下げてくれたことじゃないかと思う。10年20年と時間が経てば、きっと世間の安楽死へのハードルはもっともっと下がるような気がする。

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