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神秘的なことは、馴染み深い場所で起こる。なにも、世界の裏側まで行く必要はないのだ。

秋分の日を過ぎて、先週までの残暑がウソのように肌寒さを感じる、雨模様の土曜日。最近の再開発ですっかり姿を変えた渋谷駅を、なかば迷いながら、ようやく抜け出す。雨に濡れた道玄坂を登って向かったのは、Bunkamuraザ・ミュージアム。目的は写真展。この日の渋谷のような、雨模様の都会を好んで撮影した写真家ソール・ライターの展覧会だ。

「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」

これが展覧会のタイトル。半年前にも開催されていたのだけど、新型コロナウィルスの影響で会期終了を待たずに中止されていた。その展覧会が、ありがたいことに、この夏にふたたびアンコール開催されているのだ。その閉幕まで残り数日。観なければ!

実は約3年前にも同じBunkamuraで、大規模な回顧展が開かれていた。わたしも足を運んだ。ソール・ライターの作品をまとめて観たのは、その時が初めて。その時の感想をどこかに書いていたような記憶があったのだけど、情けないことに、探しても探しても、展覧会を観た後のランチの写真しか出てこない。

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自粛期間後の展覧会。感染症対策のため、少し間隔をあけて展示されているのだろうか。いや、今は完全予約制のため、単に入館者が以前よりも少ないせいなのかもしれない。一点一点の写真に、よりじっくりと向き合えるような気がした。

作品を照らしているスポット照明が、わたしの影を壁面や作品に落とす。そんな効果を想定して会場設営された訳ではないのだろうけど、なんだか展示作品に参加できたような錯覚を起こす。鑑賞者を巻き込んだインスタレーションのようだ。さすがにソールはこんなこと考えもしなかったはずだけど、と思う自分が可笑しくなった。

閑話休題、ソール・ライターの写真は、一見すると失敗作のように見えてしまうものも少なくない。ぶれていたり、被写体が中心から大きくずれていたり、滲んでぼやけていたり。しかし、それがかえって臨場感を高めているし、神秘的な効果を生んでいる。舞台の大半は、ニューヨークのイースト・ヴィレッジ。その立地を象徴するような被写体はほとんどなく、都会の片隅であることだけがわかる。匿名性の高い街角の写真は、散歩中に視界の端を過ぎてゆくような何気ない情景。偶然が作り出した悪戯のような組み合わせに、物の隙間から見える誰かの物語。窓ガラスの向こう側と、反射して映り込む物がつくる不思議なイメージ。湿った外と乾いた内。陰と陽。聖と俗。何が実在で何が虚構なのか、わからなくなる。シュルレアリスム?否、写っているもの全てが、その時そこにあったのは事実だ。写真家が、それらを見て、それらをフィルムに残したという事実。プリントされたその写真たちを通して、わたしたちはソールの目を追体験できる。

おこがましい言い方かもしれない。ソール・ライターには感性の近さを感じる。雑多な街の様子が好き。様々な人や物が、様々に存在し、様々に生活を営んでいるという事実が好き。横構図より縦構図。ほかの方には全く違って見えるかもしれないけれど、以前住んでいたウランバートルで毎日見ていた景色を思い出した。

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これは、モンゴルを離れる直前の2013年1月におこなった個展のDM。ウランバートルの冬景色を描いた17点のオイルパステル画を展示した(この個展の様子はこちらでも見られます)。ソール・ライターの写真にも雪景色がいくつもあった。白い背景に灯る信号機や、赤い傘。水分の多い雪に残るニューヨーカーの足跡。ウランバートルの雪景色にも、市の清掃員の橙色のベストが目立っていた。アイスバーンの路面には融けない粉雪の吹き溜りと、野犬や人々の足跡。

このnoteの投稿のタイトルにした「神秘的なことは、馴染み深い場所で起こる。なにも、世界の裏側まで行く必要はないのだ」は、会場に書かれていたソール・ライターの言葉のひとつ。COVID-19のパンデミックで、なかなか旅行しづらい世の中になってしまった。これからどうなるのか、予想がつかないけれど、だからこそ身近な馴染み深い場所を見直してみるようにと言われているようだ。

最後に、展覧会に行った日のtwitter報告を。写真展のあとに撮る写真は、つい気取ってしまう。


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