24時間365日のサービス提供を始めて、改めて気をつけていたことの話
2011年4月。24時間365日のサービス提供が始まった。活動の場所は変わらないが、時間がある分、暮らしに寄せて支えることができるようになった。地域の行事に参加することも支援しやすくなった。
「子供や孫がいた頃は、行っていたけどね。」
小さな島の学校の行事は、地域住民の参加がないと、成り立たない。ちなみに宝島では、全島民がPTA会員だ。入学式、運動会や文化祭、卒業式、多くの島民が参加する。しかし、島の子供たちが少なくなるにつれて、学校行事への参加者も年々減っていたという。自分たちの子供や孫がいなくなれば、学校行事に行く機会も少なくなっていた。山海留学や移住してきた家族の子供たち、新しく関係を作りなおすきっかけづくりも僕たちの役割だった。
そんな地域行事に参加した帰りに、岩義さんがこんなことを呟かれた。
「鹿児島に上がろうと思っていたけど、ここがあるから、上がらんでいいな。」
声が震えているようだった。それは、僕たちの覚悟を確認しているようにも聞こえた。もともと涙もろい方だったが、入学式にも感動されて、涙腺が弱くなっていたのだろう。
事業所だけで支えるのではない
シマさんの好きな畑仕事を継続してもらうために、ハード面も含めて、環境を整えた。すると、
「たからに行くと、楽しいのに誘惑されて、ズボラしちゃう。それは私の生き方とは違うから、はちはち(88歳)を忘れて、働こうと思う。」
せっかくサービスが立ち上げたのだからと、ついつい人を事業所に集めたがってしまっていた自分の思考を反省した。事業所だけで支えるのではなく、宝島で支えるんだ。それでも、畑を休む日(旧暦の節句など)には顔を出してくれて、「またいつかね、バイバイ。」といつものシマさんの暮らしの中に、事業所があった。
食事は提供することがケアではない
そして、昼食の提供も始まった。有難いことに、それを聞いた地域の方から、旬の食材がどっさりと頂いた。当時、僕も含め、男性スタッフは、味噌汁すら満足に作ったことがなかったけど、島のパワフルなお姉様たちに助けられた。長年婦人会で積んできた経験は、並みじゃない。ちなみにそれには弊害もあって、おもてなしの心からなのだが、食事作りがメインの業務になってしまうことがあった。よかあんべからの応援スタッフの尾之上さんにも協力してもらって、食事作りにも利用者の参加を促し、役割のあり方を感じてもらってきたつもりだ。一方通行のケアをするのではなく、一緒に事業所を創っていきたいと思っていたからだ。そう簡単には映らなかったけど。
「帰りたい。」
前向きなところに焦点を当てていたが、時間が長くなった反面、「帰りたい。」という利用者もいた。家族のレストパイトケア(在宅でケアしている家族を癒やすため、一時的にケアを代替し、リフレッシュを図ってもらう家族支援)を考えてのことだったけど、慣れないスタッフは困惑していた。自宅での支援はまだまだ追いついていなかった。
少しも事業所で過ごしていただくために、よくドライブにも出かけていた。小さな島だが、高齢になってからは島を見て回ることも少なくなる。だから、高齢者の多くがドライブを楽しみにされていた。
「時間つぶしのためのドライブでいいのか?」ミーティングでも議題に上がっていた。同じドライブでも、利用者の意思を引き出せた方がいい。小さなことでも話し合いながら続けてきた。この頃の姿勢が事業所の根っこになっていたと思う。
移住者同士で語っていたこと
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