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コミュニティの透明性を高めることに汗を流す #小さなやさしい社会のつくりかた

私はさまざまなコミュニティ組織に所属している。ずっと続いているもの、そのときの所属によって加入するもの、プロジェクト的に単発なものとある。(正式には、アソシエーションと呼ばれるものもあるけども、そのあたりは特に区別しない)

例えば、家庭と法人の中ものはひとまず横に置いておくとして、集落では、町内会長、宮係、各種お祭りの当番など役割から、環境美化やお祭りへの参加等住民が参加するものもある。今年は珍しく役割がないとしだったので、集落から当番ででている旭八幡郷社の氏子総代を1年間引き受けた。もう少し広げて自治区の広報部長、消防団に所属して部長をやっていたり、小学校ではPTA(特に役なし)、子ども園の保護者の会の役員、豊田市全体の子ども園の保護者会の会長、旭木の駅プロジェクトの事務局、加えて、山里合唱団こだまなど暮らしの集まり、プロジェクト的には、つい先日終了した小学校の150周年記念事業実行委員会もあった。小さな仲間たちの集まりなどを数えればもっとたくさんあることだろう。

先日、書いたように、法人のなかでもコミュニティのありかたを中心において考えるようにしている。

ひとつひとつ、しっかりとコミットできるているだろうかと言うと自信がないが、たくさんのコミュニティがあるおかげで日々おこってくるさまざまなことに対応できたり、課題がおこる前に勝手に解決されていたりする。だからこそ、これから生き残るための学びを実装していこうと先日も書いた。

なにかに所属していると、めんどうくさいという気持ちも沸き上がってくる。当日行ってみるとそうでもないんだけども、行く前は他の用事との優先順位を考えたりして特に。

「大事なのはわかってるんだけどなぁ~」

そして、参加しないと、誰かがやってくれたりする。

当たり前に誰かがやってくれるようになると、もう忘れてしまう、任せてしまう、何も言えなくなってしまう。

そして、お互い不満をかかえるようになる。

「勝手に決めて」と言うようになる。
「そんなことは頼んでいない」と言うようになる。
「どれだけ苦労してやったのか」と思うようになる。
「関心をもってくれない」と悩むことになる。
「意見がないから認められた」と勘違いするようになる。

色々な考えかたの人が所属してコミュニティはできている。自分の考えだけではどうにも動かないというのが組織だし、そこがいい点でもあると思う。

ただ、そこで無関心になってしまい、文句ばかりをいうようになるのは、もったいないことでもあるし、自分が生き残るためのひとつの場を失うことにもつながる。何より楽しくない。

悩ましい状況に出会ったとき、ひとつだけ、なにかできることといったら、日々のプロセスをいかに共有できるかに思考をふることではないだろうか。情報が滞ると組織は腐る。不透明な水のなかではいい関係性はうまれない。

簡単にできることばかりではないけれども、自分が長のコミュニティでも、自分がイチ参加者のコミュニティでも、いかに透明性を保った運営ができるのか、その点だけは異なった考え方の人たちとでも共有できることではないかなと思う。

そのためにも、集まる場があり、集まる機会があること。何より楽しい人生をおくるために♪


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