ある新任少尉と「戦争の記憶」(2)

昨日から、3回に分けて、戦時の記憶に関する身近な事例として、私が1995年3月に行った祖父への聞き取りの内容の一部を紹介しております[1]。

今回は、第2回目として、1945年8月15日から8月16日にかけての様子をご紹介します。

なお、ご紹介する内容については、個人名などの具体的な情報を隠匿化していること、一人称は全て「自分」としていること、括弧内は私の補足であることを予めご承知おきください。

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(4)終戦の詔書についての印象
8月15日に終戦の詔書が出されて終戦ということになった。

ラジオの放送は、はっきり言って雑音がひどかったから、陛下が読み上げる詔書の内容はよく聞き取れなかった。今なら「これで終戦だ」と分かるが、この時は「これは徹底抗戦の詔だ」と言う者もいてはっきりしたことが分からなかった。

放送の内容がはっきり分からなくてもソ連軍の攻撃は続いていたから、どうやってソ連軍の攻撃を防ぐかというのが最優先で、はっきり言ってしまえば「負けた」とか「降伏する」とかを考える余裕はなかった。

むしろ、降伏したならソ連軍の攻撃が続くわけはないから、「徹底抗戦の詔だ」という意見の方が本当かなと思ったし、これでいよいよソ連軍との戦いが抜き差しならなくなるだろうなと感じた。

ただ、この日は一日誰もあまり口を利かなかったのはよく覚えている。

(5)「昭和20年8月16日・朝」
翌日の8月16日、朝、非常の召集がかかった。だが、起床前の召集だったこともあってか自分は従卒に起こされるまで全く気付かなかった。

目を覚ましたのは、従卒が「少尉殿、少尉殿」と起こしてからだった。従卒は非常の召集だと教えてくれたのを聞いたとき、最初に思ったのは「しまった、軍法会議だ」ということだった。非常の召集に遅れるのは非常な失態だから、とっさに軍法会議で処分されると思ったわけだ。

それで、自分でも信じられないくらいの速さで部屋を出て集合すると、案の定自分が一番最後だったが、誰も気付かないくらい皆浮足立った雰囲気だった。

これはとうとうソ連軍が基地まで近付いてきて、特攻隊の出撃になるかと思った。

いずれ命令があるものと思っていたから特に怖いとか何とかとも思わなかったが、最初の出撃が最後の出撃になるのだから、「ああ、俺の人生もこんなものだったのか」とは思った。

やがて隊長が整列する自分たちの前に立ち、訓示を始めた。隊長が言うには、昨日の陛下の詔は政府が米英に降伏したことを告げるものだ、だから戦争はこれで終わり、もう終わったという。

「戦争が終わった」と言われてもすぐには何のことか分からなかったが、隊長は「昨日までは敵と戦って一人でも多くの敵を殺せ、最後は自分の命と引き換えに国に尽くせと言ったが、命令を取り消す。貴様らは一刻も早く国に帰り、負けた後の国が復興するのを命懸けで手伝え。決して自棄を起こして道を誤ってはならない。生きて国に戻れというのが大御心だ」と何度も繰り返し言った。

「生きて国に戻るのが大御心だ」と言うのだから、「これは命令に従ないといかん」ということで、自分たちの特攻の話は取り消しになったし、とにかく用意が出来たものから奉天から国に戻るということになった。

ついさっきまで「軍法会議か」と思い、出撃かと思っていたから、隊長の訓示は全く意外だったし、今度はとにかく無事に内地に戻らなければならないとなったから、この時のことは今でもよく覚えている。
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[1]鈴村裕輔, ある新任少尉と「戦争の記憶」(1). 2020年8月16日, https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/76353/83281ec1fa1670fd32b386f3753a2ea5?frame_id=435622 (2020年8月17日閲覧).

<Executive Summary>
A Young Second Lieutenant and His Memories on the Pacific War (II) (Yusuke Suzumura)

August 2020 is the 75th anniversary of the end of the Pacific War. In this occasion I introduce reminiscences of my grand father who was a Second Lieutenant of the Japanese Imperial Army and in Mukden, China.

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