石井光次郎の回想から考える関東大震災の今日的な意味

本日、1923年9月1日に関東大震災が起きてから97年が経ちました。

関東大震災における人的、物的な被害については中央防災会議の災害教訓の継承に関する専門調査会が2006年から2008年にかけて公表した『1923関東大震災報告書』全3編がインターネットでも閲覧できるなど[1]-[3]、種々の情報を体系的にも概括的にも知ることが可能です。

様々な話題の中でも広く知られたものの一つが、官憲や被災者、あるいは地域住民による殺傷行為が多数発生したことです。

犠牲となったのは朝鮮人、中国人、さらに内地人で、「武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった」[4]と指摘されています。

流言現象に一般的に見られる「意味づけの暴走」として生じた虐殺事件[2]に関連して思い出されるのが、後に衆議院議長を務めた石井光次郎の回想です。

すなわち、関東大震災が発生した当時は朝日新聞社に在籍していた石井は、自身の発生直後に部下を警視庁に派遣して物資の調達と情報の収集を命じました。

そして、警視庁から戻った部下は、警視庁官房主事であった正力松太郎から、「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と頼まれたと報告します[5]。

石井は、旧知の間柄でもあり、警視庁の幹部でもあった正力の発言だけにそのようなこともあるかと考えたものの、朝日新聞社の専務であり、台湾総督府総務長官を歴任した下村海南が「地震が九月一日に起こることを、予期していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、九月一日に地震が起こることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。」[5]と「朝鮮人のむほん」を否定し、他社の記者のように正力からの情報を触れ回ることを禁じました。

このような石井の回想は、われわれに多くの教訓を与えます。

その中でも重要な事項は、全体の状況を把握できない中では得られる情報の真偽を検討することが難しくなり、情報の内容そのものではなく情報源と情報を取得する者との間柄や情報源の持つ社会的な地位が情報に権威と信憑性を与える、という点です。

平常時であれば、このような点は下村の指摘を俟つまでもなく、誰もが気付き得るところです。

しかし、直面する事態が予期せぬものである場合、自明の事柄であっても見落とされたり忘れ去られがちになります。

それだけに、防災の日という機会を捉えて、改めて予期せぬ事態に対処するための心構えを平素から確認することが重要になるのです。

[1]報告書(1923 関東大震災). 中央防災会議, 2006年7月, http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai/index.html (2020年9月1日閲覧).
[2]報告書(1923 関東大震災第2編). 中央防災会議, 2008年3月, http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html (2020年9月1日閲覧).
[3]報告書(1923 関東大震災第3編). 中央防災会議, 2008年3月, http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_3/index.html (2020年9月1日閲覧).
[4]報告書(1923 関東大震災第2編). 中央防災会議, 2008年, 206頁.
[5]石井光次郎, 回想八十八年. カルチャー出版社, 1976年, 291頁.

<Executive Summary>
Ishii Mitsujiro's Recollection of the Great Kanto Earthquake Is an Important Lesson for Us (Yusuke Suzumura)

1st September 2020 is the 97th anniversary for the Great Kanto Earthquake of 1923. In this occasion we examine a meaning of Ishii Mitsujiro's recollection of the earthquake.

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