ある新任少尉と「戦争の記憶」(1)

昨日、「終戦の日」に際して全国各地で追悼式が行われました。

全国の遺族会の会員数や戦争を体験した世代が減少するなど、戦時の記憶の継承が課題となっていること[1]は、周知の通りです。

もとより、機構からしてどれほど深刻な出来事であっても記憶の風化が不可避であることは、本欄の指摘するところです[2]。

その意味で、敵味方の別なく人々に未曽有の災禍をもたらした太平洋戦争記憶をいかに後世に伝えるかは、重要な取り組みとなります。

ところで、私の祖父は士官学校を卒業した直後に終戦の詔書に接し、配属先の奉天から復員しています。

そこで、今回から3回に分けて、戦時の記憶に関する身近な事例として、私が1995年3月に行った祖父への聞き取りの内容の一部をご紹介いたします。なお、ご紹介する内容については、個人名などの具体的な情報を隠匿化していること、一人称は全て「自分」としていること、括弧内は私の補足であることを予めご承知おきください。

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(1)終戦以前の状況
飛行学校を終えて満州に配属されたのは昭和20(1945)年7月だった。ただ、飛行学校を卒業したといっても上の人たちに比べて訓練の時間が圧倒的に足りていなかったから、とにかく満州でも学校の続きのようなもので訓練ばかりだった。

訓練は士官学校の時に比べてはるかに厳しく、とにかく飛行経験の不足を補おうと、着陸してはすぐに離陸するくらいしきりに訓練飛行を行った。

このとき覚えているのは同期の1人が「前からは絶対に行ってはいかん」と厳しく言われていた、戦闘機のプロペラの方にふらふらと歩いて行ったことだった。誰かが気付いて「おい!」と止めようと思った時にはもう手遅れだった。どうして彼がプロペラに前から向かっていったかは分からない。だが、連日の訓練で疲労困憊していたのかも知れない。われわれは結局実戦に出ることがなかったから、この時のことがなければ彼も無事に復員できたかもしれない。そう思うと本当に残念なことだった。

(2)部隊内での日常生活
配属された奉天には、以前に(職業軍人であった)父の任務に従って一家で転勤した際に住んでいたし、現地の奉天千代田小学校を卒業しているので馴染みのある土地だった。

だが、父の任務で渡るのと自分の任務で行くのでは違い、毎日が朝から晩まで訓練、訓練だったから、気の休まる暇もなかったし、街に出るということもほとんどないままだった。

奉天と言えば小学生で奉天に渡った時、父の副官や若手の将校たちが射撃や乗馬を手ほどきしてくれた。「坊ちゃん、筋がいいですね」などと言っていたが、士官学校に入ってから射撃と乗馬では「貴様に教えることはない」と教官の助手のようなことをしたから、本当だったのだろう(祖父は、戦後、射撃とスキーで国体に出場している)。

また、部隊では、菓子と煙草が支給された。従卒に聞くと煙草は吸わないという。自分は菓子は食べないから、従卒の煙草と自分の菓子を交換したものだった。

(3)特攻隊の編成
昭和20年8月8日にソ連軍が日本に宣戦布告して攻め込んできた。

上の方(軍首脳)は知っていたのかも知れないが、昨日まで士官学校にいたようなわれわれにはソ連軍の侵攻は全く予想できなかった。だが、攻めて来たとなるとこちらも反撃しないといけない。

それで、実戦に出られる(士官学校の上級生の)連中からどんどん出撃する。だが、どうしても戦闘機の装備ではソ連軍の戦闘機にはかなわないし戦車を壊すこともできない。

そうこうするうちにソ連軍はどんどん攻め込んでくる。残った連中でどうしたものかと考えていると、誰かが「ソ連軍の戦車だって給油するんだから、そこを狙えばいい」と言った。

「それは名案だ」となったが、確実に給油中の戦車を狙えるかと言うとどうも心配だ。そこで、「戦闘機ごと体当たりすれば、確実に給油中の戦車を爆破できるだろう」ということになり、特攻隊を編成することになった。

今から考えてみれば、戦車一台を壊すのに戦闘機一機を使うのは割に合わないかも知れないし、ソ連軍側が自分たちが給油車を目掛けて体当たりするまで攻撃してこないという保証はどこにもない。

ただ、当時は「何かをしなければこのまま負けてしまう」と思っていたから、特攻隊を組んでソ連軍を足止めしようと言うことになった。
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[1]先細る追悼式 思い継ぐ. 日本経済新聞, 2020年8月16日朝刊27面.
[2]鈴村裕輔, 記憶の風化を恐れるな――阪神・淡路大震災の発生から20年を経て. 2015年1月18日, https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/76353/68a6bf3eeb6565da0b7ecfe8a4964f0a?frame_id=435622 (2020年3月11日閲覧).

<Executive Summary>
A Young Second Lieutenant and His Memories on the Pacific War (I) (Yusuke Suzumura)

August 2020 is the 75th anniversary of the end of the Pacific War. In this occasion I introduce reminiscences of my grand father who was a Second Lieutenant of the Japanese Imperial Army and in Mukden, China.

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