石橋湛山の「小日本主義」はいかに理解できるか

戦前の石橋湛山の議論のうち、代表的なものが植民地放棄論であるいわゆる「小日本主義」でした。

これは、日本の領土を北海道、本州、四国、九州に限定し、台湾や朝鮮半島を放棄するというもので、領土の大小が国家の国力の大小を規定すると考えられていた1920年代においては、画期的な議論とされています。

石橋が「小日本主義」を唱えたのは、『東洋経済新報』が創刊以来示していた反藩閥政治、反軍閥という論調の影響が大きく、特に三浦銕太郎や植松考昭らが日本の領土の放棄を唱える議論を行ったことは見逃せません。

また、石橋は『東洋経済新報』の論調とい理由のみではなく、海外の領土を放棄することが日本の国家としての利益を最大化すると考えたからこそ、「小日本主義」を主張した点も重要です。

何故なら、石橋にとって議論の根幹は日本の国家の利益であり、日本の成長や発展の妨げになると考えたからこそ徹底して植民地の放棄を提唱したのでした。

しかし、こうした主張は1920年代の人々の注意を惹きつけることはなく、「小日本主義」は言論界の傍流となったのでした。

これに対して、石橋が戦後に中央政界への進出を志したのは、どれほど優れた議論であるとしても国民の理解や支持を得られなければ実現しないという明らかな状況があったからです。

さらに、戦前の言論人としての石橋湛山は、人々に問題の所在を伝えるという意味もあって、後に「青っちょい議論」と振り返るような、時に極端な議論を行っていました。

政治家としての石橋は、1956年の組閣時には対立していた岸信介を入閣させただけでなく、保守合同時に自民党に入らず無所属であった吉田茂と佐藤栄作に入党の要請を行うなど、政権の基盤づくりのために様々な努力を惜しみませんでした。

こうした石橋については、1956年の「票を金で買う」と評された自民党総裁選においても発揮され、最側近の石田博英が主導する選挙戦を止めることはありませんでしたし、党内の混乱を嘆くことはあっても総裁選から撤退することはありませんでした。

その意味で、政治家としての石橋はきわめて現実的な視点で物事に取り組んでおり、月並みな表現を用いるなら「清濁併せ呑む」ことが出来たのでした。

上記のようなあり方を見逃すなら、「小日本主義」であれ石橋の言論活動や政治活動であれ、適切な評価を下すことは難しいと言えるでしょう。

<Executive Summary>
How Can We Evaluate Ishibashi Tanzan's Argument "Little Japanism"? (Yusuke Suzumura)

One of important arguments by Ishibashi Tanzan is "Little Japanism", the discussion to require the Japanese Government to withdrow overseas territories. On this occasion, we examine a remarkable viewpoint to evaluate his argument.

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