法政大学卒業から20年目に際して思い出したいくつかのこと

本日、私が2000年3月24日(金)に法政大学文学部哲学科を卒業してから満20年が経ちました。

学部の課程を修了するに際して提出した学士論文は、「カントとハイデガーの芸術論についての研究」というものでした。

指導教員であった牧野英二先生が当時岩波書店から刊行され始めた『カント全集』の編集委員を務められるとともに『判断力批判』の翻訳を担当されていたこと、演習でハイデガーの『存在と時間』を講読していたこと、さらに私の主たる興味と関心が芸術哲学にあったことなどから、学士論文では、ハイガーによる「近代主観主義的芸術観」の批判が適切であるかを、「近代主観主義的芸術観」を確立したとされるカントの芸術論に基づいて検討することを試みたのでした。

学士論文の序論では、以下のように論文の目的と構成が書かれています[1]。


芸術の本質とは何か。この、哲学の歴史の始まり以来問われ続けた難問に対し、ささやかながらも何らかの回答、あるいはその回答に至る道筋を見出すことが、本研究の目的である。我々はそのために、カントとハイデガーの芸術論を概観することから始められる。
より具体的な本研究の目的は、ハイデガーのいわゆる存在論的芸術観 が、果たしてハイデガーの主張するように真の芸術理解として妥当なのか、それとも、多様な芸術解釈の一つに過ぎないのか、このことを検討することにある。そのために、第一章においては、ハイデガーが斥けた「近代主観主義的芸術観」を確立したといわれるカントを、その芸術観が最も具体的な形で現れている『判断力批判』第一部の既述に即して検討する 。そして、これを踏まえて、第二章では一種の近代的思想の批判者でもあるハイデガーの芸術観を、『芸術作品の起源』の既述に従い、概括する。ここでは、ハイデガーの芸術観が従来の芸術観と比べてどのような特色をもっていたのか、また、その見解の本質が何であったかを、多少なりとも明らかにすることができるであろう。
このような基礎的な研究の成果を踏まえつつ、第三章においては次のような構成の下に、ハイデガーの芸術観の妥当性と芸術の本質について研究する。即ち、第一節においては、芸術作品あるいは、単なる「作品」という語が、いかなる意味において、また、いかなる範囲において用いられるべきかを検討する。この節は、本章の予備的研究をなす箇所である。第二節では、ハイデガーの芸術観の妥当性についての検討を、主に真理と芸術という観点から展開する。この節は、ハイデガーの芸術観に対する疑念と批判とが提出されており、前節の発展的かつ本章の中心的な箇所という位置を占める。そして、第三節では、本章だけでなく、本研究の核心として、芸術の本質がいかなるものであるかということを、芸術家、作品、鑑賞者の相互の連関を中心として研究する。ここにおいて、近代主観主義的芸術観の批判として登場したハイデガーの存在論的芸術観に対する一つの見解が示されることであろう。そして、芸術の本質がどのようなものであるかが、朧気ながらその輪郭を表すに違いない。

今から読み返すと嘴の黄なる名残りが強いもので、「芸術の本質とは何か」と言う時の「本質」とは何かを第1行目から問いたくなるものです。

それでも、こうした目の粗い議論を丁寧に指導して下さり、大学院修士課程でも引き続き指導教員となって下さった牧野先生や、他の哲学科の先生方のお力添えが、改めてありがたく思い出されるところです。

[1]鈴村裕輔, カントとハイデガーの芸術論についての研究. 法政大学文学部哲学科学士論文, 2000年1月提出, 1頁.

<Executive Summary>
Miscellaneous Impressions for the 20th Anniversary of the Graduation from Hosei University (Yusuke Suzumura)

The 24th March 2020 is the 20th anniversary of my graduation from the Department of Philosophy, the Facutly of Letters of Hosei University. On this occasion I remember some episodes concerning of my bachelor article.

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