島正博さんの「私の履歴書」が教える不断の努力が生んだ「紀州のエジソン」

日本経済新聞の連載「私の履歴書」の2021年度3月期を担当したのは、島精機製作所創業者の島正博さんでした。

自動編機の詳細な仕様などについての記述は、機械工学の知見に乏しい私には理解の及ばない箇所もあったものの、衰えることのない探求心が手袋編み機、横編み機からコンピューターグラフィックス事業へと次々に新たな発明を行う「紀州のエジソン」の誕生に繋がったことが分かるものでした。

その中でも、とりわけ興味深く思われたのが、太平洋戦争で父が戦死したため小学校2年生で一家を支えることになり、焼け跡の廃材を利用してあばら家を建てて生活する一方、亡父の遺した手袋編機を用いて手袋づくりの内職を行ったことが、その後の歩みの原点となったことです。

13歳から家に近い池永製作所にで手動の手袋編機の修理の手伝いながら機械装置への関心を深めたこと、池永製作所を経営していた岩城仁三郎氏の支援で後に和歌山県立和歌山工業高等学校に改名する県立光風高等学校定時制課程に入学し、苦学して機械工業に関する学びを深め、16歳の時に最初の実用新案である「作業手袋編成機の支針板自動旋動装置」を出願したことなども、島さんのたゆまぬ努力を示すものと思われました。

何より、その後独立して最初の島精機製作所の前身である三伸精機を設立して以降、機械全体の設計図は自らの頭の中に留め、開発が進むにつれて各部位の図面が出来るようにすることで、設計変更のたびに図面を描き直す手間を省き、短時間で製品を完成させようとした逸話は、島さんの徹底した現実主義と合理主義の表れと言えるでしょう。

高校時代はハンドボール選手として国体に2度出場し、島さんに対して「こんな人と結婚するとは絶対思わなかった」という第一印象を持っていた高橋和代さんを生涯の伴侶に迎えたこと、さらに鷹揚な人柄と捕鯨発祥の地として知られる和歌山という土地に因んで「ホエール和代」の愛称で和歌山放送でラジオ番組「ホエール和代のワンダフルわ~るど」を担当した和代さんの急逝を悼む様子などは、夫妻の愛情の細やかさを感じさせるものでした。

「けんかマサ」と呼ばれた小学校時代の気質が長じてからは不断の努力へと発展したことを含め、30回にわたる興味深い島正博さんのお話でした。

<Executive Summary>
Dr. Masahiro Shima and Half His Life Seen from My Résumé (Yusuke Suzumura)

Dr. Masahiro Shima, the Founder of Shima Seiki, wrote My Résumé on the Nihon Keizai Shimbun from 1st to 31st March 2021.

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