「三島事件から50年目の日」に考えたいくつかのこと

今日、作家の三島由紀夫が陸上自衛隊市谷駐屯地で騒擾を起こした後に自決してから、50年が経ちました。

いわゆる三島事件に関する論考は汗牛充棟の観を呈しており、様々な論者が種々の観点から議論しているのは周知の通りです。

それだけに、本欄が三島事件について何かを議論する余地はないかのように思われます。

一方で、何故実力行使という非合法的な手段をあえて選んだかという点を考えることには、依然として何がしかの意味も存することでしょう。

例えば、目的の達成のために手段を択ばない態度はある意味で人類に普遍的な現象ながら、より焦点を絞れば、いわゆる赤穂浪士による吉良義央邸襲撃が、大衆的な人気を博しながらも徳川幕府にとっては罪人であったこと、さらに維新によって京都から江戸への奠都がなされた際に明治天皇が大石長雄らの墓所である泉岳寺に勅使を派遣して勅書と金幣を下賜して大石らを公に顕彰したことが思い出されます。

すなわち、明治天皇の勅書には「汝良雄等固執主従之義復仇死于法」と大石らの行動を主従の義に基づく行為として深く嘉賞する旨が記されています。

明治天皇の勅書は、一面において新たに首都となる江戸の人々の支持を得ていた大石らの行動を敬慕する姿勢を示す新政府の懐柔策であるとともに、他面においては戊辰戦争のさなかに忠君の徳を強調しようとする新政府の態度の表れと言えます。

また、こうした態度は、明治時代になって「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候」という楠木正成の姿勢が「七生報国」の考えとして生まれ変わったことと軌を一にする現象ではあります。

大石の場合は「主家の仇討ち」という目的のためには法を犯しても赦されることになり、「七生報国」も合理的な思考よりも行為の純粋性の重視という行動に繋がるものです。

もとより三島には三島なりの問題意識があり、そのような問題意識に基づいた行動が三島事件を導くに至りました。

しかし、そのような問題意識の背後に、大石良雄や楠木正成を嘉賞した明治時代の雰囲気、あるいは「天皇中心の国」という考えが濃厚に認められるのも否みがたいところです。

その意味で、三島由紀夫は、自覚的か否かは別として、大石良雄や楠木正成に類する行動をとったと言えるのかも知れません。

<Executive Summary>
Why Did Yukio Mishima Try to Take Coup d'Etat? (Yusuke Suzumura)

The 25th November 2020 is the 50th anniversary of the coup d'etat by Yukio Mishima in 1970. In this occasion we examine a reason of his decision and activity.

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