独立時計師への憧れ以前

これは20歳の時に抱いた、独立時計師になるという夢を叶える40歳の物語。

独立時計師という言葉を知ったのは村上龍さんが書かれた「13歳のハローワーク」という書籍でした。
これから数回に渡って、時計製作者として起業すると決めた経緯について知ってもらうために、過去の自分について話していきたいと思います。

高校は家から1番近い府立の高校に通っていました。
家庭の事情で大学進学が無理だと分かっていたにも関わらず、私は高校を卒業すると同時に就職したりはせず、焼肉屋でバイトを始めます。
何もやりたい事が無かったし、出来れば働きたく無かった私が焼肉屋のホールスタッフのバイトを選んだのは、友人が居酒屋でバイトをしていて楽しそうに見えたのと、高校時代にファミレスでキッチンをしていたことから、飲食店ならすぐに慣れると思ったのと、キッチンのスタッフより楽そうに思ったのと、時給が高かったからという安易な理由によるものでした。

そんな理由で始めた上にコミュニケーション能力が当時から壊滅的だった私は、バイトに命を賭ける先輩達にボロカスに怒られながら働いていました。
仕事の覚えも遅く接客業も初めてで、毎日半泣きになりながら槇原敬之の「どんなときも」を小声で歌い自分を励ましていたのを覚えています。
全く楽しくない日々でしたが、バイトの面接に落ちまくる中、やっと受かった焼肉屋だったので辞める選択肢はありませんでした。

高校でバイトしていたファミレスのキッチンでも全然仕事が覚えられず、怒鳴られまくっていました。周りが楽しそうに働いてる中ひとり惨めな思いをしながら仲間には入れてもらえませんでした。
バイトに行くのが嫌で嫌で仕方ありませんでした。誰からも相手にされず、邪魔だと言われる毎日。
そんな私に1人の先輩がこう言います。

「おまえはとりあえず、皿洗いを誰よりも早く出来るようになれ」

この言葉を貰ってから、バイト中はもちろん、家でも皿洗いをどうすれば早く出来るのか、そればかり考え始めました。バイトへ行っても洗い場へ直行する生活。調理場でみんなが話してても全く耳に入らないし羨ましくもない。

他のスタッフは配送された冷凍食材の荷出しをしたり、調理をしたり、ピークタイムの伝票ラッシュを捌きながら笑ったりしてる中、ひたすら皿洗いをしていました。
必死に皿洗いをする中で、どうすれば早く洗う事ができるのかコツを掴んでいき、いつしか誰よりも早く皿洗いが出来るようになった頃、周りの目が変わり始めました。

皿洗いで認められるようになると、キッチンの花形である調理場での仕事も教えてもらえるようになり、皿洗いと同じ気持ちで必死にやる中で調理も出来るようになり、いつしか週末のランチタイムにもシフトを入れて貰えるようになって重宝され始めました。

皿洗いが私を変えたのです。

最後は嫌味な社員と折り合いがつかなくなり、あれほどあった熱意も醒めてしまい辞めてしまったのですが、今でも先輩には感謝しています。

焼肉屋で閉店後の掃除中「どんなときも」を口ずさみながら、ファミレスでの経験を思い出した私は、とにかく何か1つに特化しようと心に決めます。
そして誰よりもドリンクを作れるヤツになろうとし始めたのです。
そこからは皿洗いと同じように、ドリンクの事だけをひたすら考えて過ごしました。
バイト中はもちろん、家でもドリンクの種類を覚えたり動きを確認したりして、起きてる間ずっとドリンクについて考えている状態になり、続けるうちにいつの間にか誰よりも早くドリンクを作れるようになっていました。

そうするとファミレスの時と同じで、他の仕事や接客もどんどん出来るようになって認められるようになり、仲間も出来てバイトがめちゃめちゃ楽しくなりました。
ずっとバイトについて考えてる状態となり、とんでもなく熱中していました。
しかし、焼肉屋にハマって1年が過ぎた頃、店舗数を拡大する動きが出始め、そのころに入社してきた社員とまたしても反りが合わなくなり、あれほどあったバイト熱が急激に醒め始めます。

高校を卒業する時に、なんとなく20歳までにやりたい事を見つけられると思っていたし、それで成り上がろうと思っていました。
仕事というのは自分が心からやりたい事に対して使う言葉だと当時は思っており、それ以外のお金を稼ぐ手段をバイトと勝手に区別していました。
あれほど熱中していた焼肉屋をずっと続ける気にならなかったのは、そんな考えがあったからだと思います。

バイト熱が急激に醒める中、20歳が近づいてきて悩んでいました。
悶々とするなか出会ったのが、冒頭に書いた村上龍さんの本です。

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