子どもに学んでほしいなら大人がまず学びを楽しもう

2023年度3学期に発行した中1向け学年通信「学習について」の記事。1年間で1万字超の連載をやらせてもらいました。毎度FBで公開して知人からコメントをもらうものの、思い返してみれば保護者からのフィードバックを全く聞けていないまま1年間が過ぎ去ってしまいました。これはまずい。


1月発行:好奇心

“Curiosity killed the cat(好奇心は猫をも殺す)”というイギリスのことわざをご存じでしょうか。背景としてまず、猫が神秘的な生き物とされていて、死に際を人に見せない習性があるためか、「なかなか死なない」という意味で”A cat has nine lives(ネコは九生あり)”ということわざがあります。冒頭のことわざは、その猫でさえも好奇心というものによって死の危険にさらされる、という意味です。つまり、九生ある猫と違って一生しかない人間が過剰な好奇心を持つということは、簡単に死の危険に直面するという、先人からの警告です。野生動物への好奇心から人里離れた山に入ると、猛獣に襲われるかもしれません。人の歴史として、そうした危険から回避するための策として過剰な好奇心にブレーキをかけることが、長く健康に生きることへ寄与してきたのでしょう。しかし一方で、好奇心は人の持つ根源的な感情であり、充実した人生を歩むためにとても大切なものです。「わが子の知的好奇心を伸ばしたい」という考えはよく聞きます。相対性理論で有名な物理学者アインシュタインは若い世代へのアドバイスとしてこんな言葉を残しています。“Never Lose a Holy Curiosity.(神聖な好奇心を失うな)”。さて、歴史的な偉人からそうは言われたものの、神聖な好奇心をありのままに放置すると、猫も命を落とします。この一見矛盾した先人からの助言を考えながら、現代における好奇心の健全な育み方について考えていきます。
ここで、一つ私見として仮説を述べます。好奇心を、人間社会で扱う資産のような「増減するもの」と考えてみます。我々人間は、何かを学ぼうとすると一定のエネルギーを費やします。しかし、新しいことを学ぶことは好奇心を増幅する効果も持ち、次に消費するエネルギーを低減する効果も生むと期待できます。未就学児の学びとはまさにこれで、何か新しく習得できること一つひとつが大きく世界を広げ、次々に挑戦する気持ちが内から湧き上がっています。まるで、利回りの良い株式投資を繰り返して資産運用をするかのごとく、好奇心という神聖な資産を上手く増やし続けているのが多くの幼児の姿です。それでは、どこで資産運用に失敗してしまうのでしょうか。それは”強制”にあると考えられます。何かを強制されることで、好奇心が減るということです。しかし一方で、過剰な好奇心は猫をも殺すということを先人から学んでいる我々人類は、どこかで好奇心にブレーキをかけることも大切です。ところが社会の成熟にともない、このブレーキが過剰になっているのかもしれません。好奇心に突き動かされて一日中読書をする子どもと、誰かに強制されて一日中読書をする子どもは、とっている行動は同じでも前者は好奇心を増やし、後者は減らしているのです。それでは全ての強制が悪かというと、そうではありません。好奇心に突き動かされてなんでもかんでも口に含んでみる幼児の行動を大人が止めるのはまさに、好奇心は猫をも殺すことを知っているからこそ、注意深く危険を未然に防ごうとしている行動です。大人が強制するのはその程度でよいのではないでしょうか。すなわち、中学生の成績表を大人が見て「ここの点数が低いから、次は問題集のこれをやって、これから毎日必ずこの演習をやりなさい」という強制が、好奇心をどんどん減らしてしまっているのかもしれません。
こんな話題を提供すると、「そんなこと言われたって、こっちが何も言わないとうちの子は全然勉強しなくなる」という声が挙がると思われます。子どもが好奇心を持って学びに向かうために大人が取るべき行動は、学びの強制ではなく、以下の2つだと考えます。まずは、好奇心を持って学びに向かうことが楽しいこと、充実した人生に繋がることであると、大人自身が体現し続けることです。知識の段階が違えども、新しいことを学んで楽しそうにしている大人の背中を見せましょう。ただただSNSを眺めて時間を浪費し、好奇心を増やすことなく消費し続けるのと、何かを学び、好奇心を消費しながらもそれ以上に増幅しワクワクしているのは、どちらが楽しいものであるか、子どもは身近な大人を見て学びます。もう一つは、有限な好奇心を”ちゃんとやる”で消費させないことです。大人になって会社に勤めれば自分の部署以外の仕事はそちらに任せ、自分自身は得意な専門分野の仕事さえすれば給料がもらえます(というのが理想ですが…)。何でも一人でこなす個人事業主であっても、農家が作った野菜を食べますし、IT企業が作製したコンピュータを使います。つまり、自分が得意でないものは他人に任せ、適材適所で社会を回すのが成熟した人間社会です。しかしなぜか、ついつい我々大人は子供に苦手とばかり向き合わせようとしてしまいます。こうした苦手を克服することを強制し、人並みにちゃんとやることを目標にしつづけると、好奇心は消費され続けます。それでは人並み外れた得意分野をつくるために必要な好奇心は残りません。せっかく誕生日プレゼントで奮発して買った高級な知育玩具を、子どもが一切興味を示さないからといって「2時間これで遊ぶまでごはん抜き!」なんていう親はいません。大人が夢中になるくらい遊び始めれば、つられて子供も遊び始めるものです。教科学習についてもその姿勢で向き合ってみると、健全な好奇心が育つと考えられます。
最後に、アインシュタインの言葉のとおり、好奇心は選ばれた人にだけ備わっているものでも、後天的に厳しい修行の末に得るものでもありません。神聖なものとして誰もが持っていて、いつかどこかで失う危機に晒されるものです。ここでは、何かを強制するということがその好奇心を失わせる機会そのものだと述べてきました。一方で、好奇心は猫をも殺すので、未然に防ぐことのできる命の危機を回避することも大事な視点です。ところが大人は、ついつい命の危険なんて到底心配がないようなことまで、先回りして子どもの進むべき道を作ってしまいがちです。その道を歩ませる強制が神聖な好奇心を失わせます。そして、好奇心を増やし続け、学び続ける人生が極めて楽しいものであることを背中で語りつづけましょう。我々教員もその気持ちを忘れることなく楽しみながら学び続けていきます。

3月発行:大人が心の余裕を持とう

『将来のために勉強をしなければならない』は、誤った勉強への印象付けだといえます。という一文から今年度の学年通信の【学習について】を担当させてもらいました。
私は“学び”は“遊び”の部分集合であるべきだと考えます。つまり、本人の主体性なく何かに強制された活動では、学びを得ることはできないということです。では学校における時間割・カリキュラムとは何なのかというと、気の遠くなるほど時間をかけたきっかけ作りです。ヨチヨチ歩きの幼児にサッカーボールを与え、遊んでくれるまで気長に待つように、我々教員は専攻する学問の魅力に気づいてもらえるまで、気長に待っているのです。そして、長い人生においてごく僅かだけ許された学生という贅沢な時間を、最大限に活用してもらいたいと考えています。ところが、「学生のうちは我慢して、苦労して勉強をすれば将来が楽になる」といった、まるで逆のアドバイスが聞かれることもあります。大人は新しいことを学ぼうと思っても、孤独な自学は長続きしにくかったり、生活の中で時間的余裕が取れなかったりと、数多くのハードルがあります。しかし自由に学ぶ時間を確保され、いつでも専門家に質問できる中高生は大人が羨む贅沢な時間を過ごせるはずです。仕事のTODOを片づけるような感覚で学習における課題に取り組むのは、一見仕事のできるビジネスマンのように見えます。課題を早く片付けることは良いことなのでしょうか。与えられた時間を優雅に使い、深く考え、その結果として確かな生きた知識を得ることが理想だといえます。学びの時間そのものを楽しみ、堪能できるように私たち大人は声掛けをしていくべきです。「早く宿題やっちゃいなさい」ではなく「もっとじっくり考えてみたら?」と言える心の余裕を大人が持つことで、子どもたちが健全に学び、成長することに繋がります。
仕事と学習は決して同一視してはならないものです。仕事は他人のために遂行して報酬を受け取るもので、学習は自分自身の成長のために行うものです。しかし自分自身の成長のために遊び続けている路線が、そのまま仕事として成立することがあります。漫画ONE PIECEの作者尾田栄一郎氏は「大人になっても働かなくていいんだ!」と、少年時代に漫画家という職業を知り、遊び続けて世界で5億部を越える単行本を売り上げています。教師という仕事もそんな稀な例であり、私たち教師は学ぶ楽しさに気づいてもらえるよう、これからも生徒たちに学びの楽しさを伝え続けていきます。


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