学びについての大人の声かけが、色々間違っていたかもしれません

諸事情あって2023年度中1学年所属→2024年度も中1学年所属となり、大変光栄なことに所属を離れた2024年度中2学年から「【学習について】の連載を今年度も続けてもらいたい」と言っていただきました。果たして2学年に刺さる文章が書けるかちょっと不安もありましたが、とりあえず1学期を終えました。当たり前だと思っていた言葉を疑うって大事です。


4月発行:学校に通う目的は?

学校に通うのは何のためでしょうか?その答えは学費の内訳を見ると明らかです。学費の中で最も大きな割合を占めているのは”授業”料です。つまり主な目的として、授業を受けるために学校に通っているのです。ところが、卒業するころに思い出を振り返ってみると、多くの中高生は行事や部活動のことを語ります。この原因は目的意識の誤りにあると考えられます。行事や部活動は、その活動そのものを目的に情熱を注ぐことがほとんどです。将来のため、何かの準備のためにやっているわけではありません。剣道をすると姿勢が良くなる、礼儀正しくなる、何にも負けない強い精神力を身につけられるなどといった効果を期待して剣道の道場に通わせる親はいますが、「よーし礼儀正しい人になるために頑張るぞ」という意気込みで剣道をする子どもを見たことがありません。大人の期待する目論見と、子どもが持つ目的意識は必ずしも一致しません。損得勘定なく、大人が呆れるほどの情熱を注ぐことが青春の1ページを彩ります。だからこそ、行事や部活動がかけがえのない思い出として心に刻まれるのでしょう。さらに、そこから様々な学びを得るのでしょう。
ではなぜ、もっとも大きな割合で保護者が学費を投じている授業は、思い出に残らないものになりがちなのでしょうか。受験ビジネスに翻弄されて歪んでしまった学校教育では、授業で得る知識や思考力は、受験のための道具になってしまっているから、という仮説が考えられます。つまり、目的が授業の中にある知的好奇心を満たす活動そのものではなくなってしまっているのです。大学受験が学ぶ目的であり、唯一無二の目標として見据え、その手前にある中学・高校の授業は耐え忍ぶ我慢の時間と捉える風潮が、この数十年で引き返せないほどに強まってしまいました。近年、「受験のためだけの勉強なんておかしい」と気づき、「受験の先にある長い人生で役立つ力を養うのが学校教育だ」という意見も出始めました。この論調は一見、的を射たものに見えます。しかしこれもまた、子供の立場になってみると「そうか!将来のためになるなら辛くても今は頑張るぞ」となるとはなかなか想像できません。自分自身が人生の中で成長するための分かりやすい目標の1つ、さらには学びの場を得る手段の1つとして大学受験を利用するのはプラスに働くこともあるでしょう。しかし、取り組む活動そのものの中に目的を見出してこそ、それを楽しみ、学びを得ていくのです。
「将来のために勉強をしなければならない」を否定されると、大人は少々困ります。これは、今までそうした不安を煽る指導法が蔓延してしまい、多くの現代の大人がそう教わったためだと考えられます。自分自身が受けた教育と異なる教育を子どもに伝えるのはとても勇気がいることです。それでも、本来の学びの意義を考え直し、学ぶことそのものに意義を見出せるよう、見守る私たち大人も考えをアップデートしていきましょう。

6月発行:平均点依存症

「平均点依存症」について考えます。これは著者の造語でありウェブで検索してもヒットしませんが、今の教育界が解決しなければならない非常に深刻な問題だと考えています。この時点で「絶対評価なんだから平均点に意味がないなんて当たり前じゃないか」と考えることのできる方は、この先を読む必要はありません。
学校の評価基準が相対評価から絶対評価にシフトして既に20年以上も経過したにも関わらず、未だに子どもたちはテストを受けるたびに平均点を気にしがちです。自分自身の答案に書かれた点数について、平均点より高いか低いかで一喜一憂していませんか。本来は授業で扱った単元を理解できたかどうかを診断するために、できる限りの努力をし、満点を目指して臨むものです。定期考査において、知識として身に付いたと思ったものが、実は一面的な理解しか進んでおらず問われ方が少し違うだけで解答に辿り着かないという経験を積みます。そうした経験により知識の頑健性が向上し、より確かな知識体系が構築されるのが定期考査の狙いです。話を戻すと、こうした狙いを考えたとき、平均点より高いか低いかなどというのは全く意味のない情報であることは自明です。かつての日本の教育界では、相対的な評価を燃料として競わせる手法を使ってきました。しかしこれは画一的なゴールがあり、準備された解答を正確に素早く導くことが優秀とされた工業化時代の話です。そのような思想では、現代の情報化社会では通用しないと気づき、20年以上も前に絶対評価に切り替えたはずでした。隣にいる人との比較ではなく、自分自身が何を学び、何が身に付いたのか、その先に何を見出すのかを考えるのが望ましい姿です。しかし、現代の教員や保護者の多くは相対評価の中で教育を受けて来たケースがほとんどです。その結果、ついつい大人が平均点を気にするせいで、子どもたちは平均点を気にするようになってしまいます。「平均点以上取りなさい」を期待された子どもは、それが最大の目標だととらえ、本来気にするべき学ぶ内容から目がそれていきます。
このような主張に対し「それでも大学受験では相対的に合否が出るから相対評価を考えるべきだ」という反論もあるかと思います。しかしそもそも、中高の6年間は大学受験の準備だけのための期間なのでしょうか。効率のよい大学受験準備のために、学びに対する姿勢を見失ってもよいのでしょうか。健全な学びに対する姿勢が養えていれば、それを原動力に自ずと理想的な進学先も見つかるでしょう。まずは自分の成長と向き合うことから目を背けないように、大人が平均点を気にするのをやめていきましょう。

7月発行:定期考査は目的ではなく手段

『テストで良い点を取るために勉強しよう』
このセンテンスに違和感を持つでしょうか。これは近現代の教育界で作り上げられてしまった誤った考え方であるという主張を以下に述べます。
それでは『勉強しなくても簡単に100点が取れるテスト』は良いテストでしょうか。大局を見れば、そのようなテストでは成長が見込めないだろうと予想できます。つまり、単純に点数が取りやすいだけのテストは良いテストとは言えません。しかし悲しいことに生徒の一部は『勉強しなくても簡単に100点が取れるテスト』を欲しがります。これはただ易きに流れる子どもの甘えでしょうか。テストの点数を目的としてしまう思考回路になっている場合、簡単であればあるほど確実に目的が達成できる望ましい道だと考えるのは自然なことです。つまり、冒頭に述べた『テストで良い点を取るために勉強しよう』を浴び続けることによって、子どもたちはテストの点数を目的とするようになってしまうのです。さらに、テストの点数だけに目がくらみ、一夜漬けをしてテストが終わると記憶をすぐ失うことに違和感を持たなくなります。テストが返却されても点数だけを見て一問一問の正誤から目を背けるようになります。このような不健全に見える子どもたちの態度を作り出してしまったのは、ついつい大人が言ってしまってきた『テストで良い点を取るため』だったのではないでしょうか。
今も昔も変わらず、定期考査をはじめとする様々なペーパーテストの意義は学習状況に対する評価であり、学習者が自身の学習状況を知るために用いるものです。すなわち、テストは学習における目的ではなく手段なのです。そのテストの点数を目的にしてしまうのは誤りであることは明らかなのに『テストで良い点を取るために勉強しよう』という表現は、違和感を持たなくなるくらい、学校で、家庭で、繰り返し使われてきました。そしてこれを否定されると自然と考えざるを得ないことは『何のために勉強をするのか』という問いです。ヒトとは知的好奇心を満たすことに喜びを感じる生き物です。そうすることで進化を続けてきた種であるといえます。何のために勉強するのでもなく、学ぶことそのものが喜びだから学ぶのです。PISA2022の調査結果でも日本の子どもは自律学習に対する自信が非常に低いことが示されました(OECD37か国中34位)。一方で科学リテラシーなどのスキルは非常に高い水準を保っています。誤った動機付けで目の前のテストの点数を引き上げることができても、学ぶことの喜びを忘れてしまったヒトは幸せに生きていけるのでしょうか。『テストで良い点を取るために』という動機付けをしている大人こそが、易きに流れているのかもしれません。難しくても根気強く学ぶことの喜びを示していきましょう。


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