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(小説)星の降る街 12

 嫌な予感がした。
 すぐにテレビを付けると、三陸沖が震源でマグニチュードは八・九だという。なんと震度は神戸の震災以来聞いたことのない震度七を宮城県栗原で記録して、ほぼ全国が揺れている図がテレビで紹介されていた。大変なことになった、とは思ったが、全容は全く分からないまま数分が過ぎた。
 私は我に還った。石巻が震度六強になっている。ただではすまないと直感した。有里への携帯電話は繋がらなかった。阿部にも佐々木先生にも掛けたが繋がらない。テレビでは東北方面への不要不急の電話を控えるようにアナウンスされていた。私は急いでいる、何度も掛け続けた。
 有里と阿部にとりあえず「大丈夫か、連絡してほしい」とメールした。しばらくすると菅野から電話が入り、「衛星電話しか通じないかもしれない。うちの仙台支社と連絡が取れたけど、相当な被害が出ているだろうとのことだった。今夜行こうと思うけど一緒に行かないか、と言われ、夕方の新幹線で向かうことにした。私が大手の商事会社は衛星電話も常備しているのかと感心していた頃、テレビでは大津波警報が出ていた。
 まもなくして、海上保安庁、自衛隊などの航空機がとらえた映像は恐ろしい波の列が陸地に向かって押し寄せているのを捉えていた。仙台沖から陸に向かって進んでいる。各地から被害の情報も入っていた。早いところでは津波が押し寄せているようだった。私は有里がちゃんと高台に逃げているかどうか気になった。
 石巻の地形と白石島の地形は似ている。三方向を小高い丘と山に囲まれ、海に面している平野はゼロメートル地帯に近い。津波や高潮に弱い。まして石巻は市内の中心部を旧北上川が通り抜けている。土手が決壊する可能性もある。
何度も、何度も電話したが繋がらない。
 三時半になった頃には絶望的な画像が出始めた。東京や横浜の状況も分かってきた。震源から離れたところでこれだけの揺れだ、東北の被害は想像できた。
 しかし津波の被害は見たこともないような惨状を映し始めていた。
津波は仙台平野に楽々と入り、田圃を軽々と進む。その真黒な水はトラックや家をいとも簡単に飲み込んでいる。他の地区の映像では波の前を必死に走っている様子も映っている。私は国内での、これほどの災害を知らない。
とにかく石巻に向かおうと荷作りをしていると菅野からまた電話が来た。「テレビ、観てるか」、菅野は明らかに常軌を逸した声だった。時々観ながら荷作りをしていると言うと、「しっかり見て目に焼き付けろ、もう電車も出ないし、道路もしばらくは使えないだろう。今夜の石巻行きは絶望的だ。断念するしかない」珍しく菅野がうろたえている。大手の商事会社はマスコミ並みの情報網がある、刻々と惨状が入ってきているかもしれない。
 私はまさかそこまでとは考えていなかったので、テレビから目を放していた。その間も有里や阿部に繰り返し電話とメールを続けていたが、何も反応はなかった。
 いつの間にかテレビは地震津波報道一色になっていた。民放はコマーシャルが全く入っていない。記憶のある限り、昭和天皇崩御以来ではなかろうか。
 夜になると気仙沼、石巻とも火事の映像が流れ始めた。爆弾が落ちた後の戦場のようだとテレビが言っている。青森や岩手、福島、茨城の状況も少しずつ新しい悲惨な情報が入っている。どこも津波以前の風景はもうなかった。視聴者からの映像もあった。絶叫するような声を掛けながら逃げる人、簡単に家が壊れ屋根だけが水面に浮かんで流れている。
 私の胸は張り裂けそうだった。
 ようやく石巻の詳しい情報が入ったのは深夜になってからだ。菅野の会社の仙台支社の社員らが石巻、気仙沼、多賀城、名取などに手分けして行ってきたという。
「まだそれほど詳しいことは分からないけど、会社に上がった報告は聞いちゃおれん。石巻は地盤沈下もあって、旧市街地の中心部は全滅だ。石巻駅、商店街も門脇も旧北上川の東側、松並、渡波も、陸前稲井駅も。場所によっては二メートル以上も水に浸かっているそうだ。もの凄い人数の死傷者が予想されるとのだった。もう俺は気が狂いそうだ」
 菅野の声はかすれていた。電話の向こう側からは大きな声が聞こえていた。混乱している商事会社の雰囲気が伝わってくる。
「稲井? あんな内陸まで。中里は当然やられているな。有里が家にいれば泉町あたりは無事だよな。でも花屋は市役所の近くだし、配達しているのなら、どこにいたかだな。高台に避難してくれていればいいが。みなとのアベッツの職場はどうなんだろう」
 頭の中で石巻の地形を思い浮かべると次第に息が詰まってくる。
「有里は大丈夫な気がする。湊は確認出来ていないけど地区の半分は浸かっていると思う。妹の千世の家は陸前稲井駅の近くだし、義弟の職場は中里だ。みんな心配な地区だ。今は大渋滞で都内の移動も大変だ。明日の早朝に会社が山形にヘリを飛ばすことになった。俺はそれに乗って山形から石巻に向かう。レンタカーは手配できた。後は地元のことだ、走りやすい道は分かっている」
 いつも冷静な菅野の早口を初めて聞いた気がする。
「テレビで見る限り酷すぎる。東京でじっとしているのもじれったい。俺も乗せてくれよ。連れて行ってくれ」
 思わず叫んだ。
「マッサ、自分の体のことを考えろ。さっき誘ったくらいだから普通なら連れて行くけど、状況が悪すぎる。道路は大渋滞だ。丸の内から歩いて羽田に向かう。石巻は飲み水が一滴もない筈だ。俺は背負っていく。大丈夫だ、待っていてくれ。何か分かれば、すぐに連絡するからな」
と菅野は言って、石巻に向かった。
 深夜を過ぎてもテレビは報道し続けた。推定で数万人が死傷したという予測も流れ始めていた。宮城県だけで死傷者、行方不明は一万人を超すのではないか、と言い始めている。自分で手当てしている筈のカウントされていない人たちを入れたら被災者はどれくらいになるんだろう。
 私はただ怯えるしかなかった。
有里の無事を祈るしかない。
 菅野はたどり着いたのかどうか確認できないまま翌日の夕方になった。福島第一原子力発電所が全電源喪失し、大変な事態になっているのではないか、など事態は悪い方にしか進んでいない。青森や千葉でも津波が押し寄せているといい被害範囲が分かって来た。江戸川区から近くの千葉県の浦安では液状化現象で街の一部が崩壊していた。横浜駅近くのビルが揺れている映像や都内の施設で天井が落下して死傷者が多数出たとの報道も出始めた。まさに東日本の太平洋側は尋常ではない姿になっている。
「地獄だ、地獄だ。肺の悪いマッサが来るところではない」
 菅野からのメールだった。それだけだったが、すべて理解出来た。
 人は急激に落ち始める時に言葉はなんら有効ではない。場合によっては甘い言葉などは耳触りにさえなる。必要なのは行動だけだ。奈落に落ちたことのない人間に限って精神論を説き始める。テレビはそうなりつつあった。
 三日目の朝、もう待てなかった。
 菅野からは深夜二回目のメールが来ていた。落ち着いたのか、少し丁寧な文面になっている。「石巻市内にはたぶん数十ヵ所くらいの避難所が設けられている。とても一人では探し出すことは出来ない。まだ誰一人生存を確認していない。しかも泉町は今のところ進入ルートがない。恐らくボートがないと行けない。雪が舞う中、とても水の中を歩けない。しばらく石巻専修大学の避難所を基地にしてみんなを探す」とあった。
 プロダクションの赤田社長に連絡すると、所属している報道カメラマンが大型のオートバイで被災地を回るという。カメラマンに事情を話すと「土地勘がなく一人では心細いのでよかった」とすぐに同行を了解してくれた。
 私は奮い立った。
 有里は生きている気がした。カメラマンとともに石巻までのおよそ四百五十キロを飛ばしてもらった。背負ったリュックとオートバイに乗せられるだけの食料を積んだ。荷物を高く積み過ぎているせいもあるのか、途中で何度か警察に止められたが、取材だとカメラマンが言うと簡単に通してくれた。石巻の水没道路が詳しくは分からないので、北から回り込むように入り、石巻専修大学を目指した。着いたのは十四日の午後八時頃で街灯も点いていない暗い街だった。
 入口には大勢の避難している人が何をするでもなく立ち並んでいた。その中に菅野と阿部もいた。
「マッサ」
 列から飛び出してきた阿部は、それ以外に何も言わずすがりついて来た。私はただ背中を撫でた。五分もそうしていただろうか。阿部は私から離れていきなり大きな声で話し始めた。
「地震があった時、湊の喫茶店にいたんだ。たまたま忙しくて遅い昼ご飯を食べ、食後の珈琲が出た頃だった。ただパニックになっていたけど、やがて津波を警戒する余裕が出て、お店の人やお客さんも、みんな高い所に逃げるぞーって。ところが俺が車に乗ろうとすると、知らないお婆さんが息子のところに行きたいから送ってくれと。松並方面だ。危ないなと思ったけど山側みたいだから連れて行きかけたら反対車線から、消防団の法被はっぴを着た人が、危ない、早く反対側に逃げろって」
 阿部は何を言いたいのか興奮は冷めなかった。私は腕を撫でながら聞いた。
「なかなか元の車線に戻れず、結局松並で津波にあった。俺はお婆さんの手を引いて車を捨てて必死に走った。足が濡れ始めたらもう後は何が何だか分からなかった。どこかの物置の上まで波に押し上げられた。それでも俺はお婆さんの手は放さなかったが、屋根に引き上げられないんだよ、着膨れしているし、お婆さんは放心状態で力は入っていないし」
 話の先が容易に予測できた。阿部にどのような言葉が必要なのか全く分からないが、必死で言葉を探した。
「おめえ、にげろ。早くにげろ、婆ちゃんの手ばはなせ」
 そこまで話すと阿部は両手で顔を覆ってあらん限りの声を上げて泣き崩れた。
「その時小屋ごと流された。それまではしっかり掴んでいたけど、一瞬手を放したかもしれない。流れてきた車に小屋がぶつかり、衝撃でお婆さんと別々に投げ出された。俺はしばらくして、近くにあった大きな庭木に掴まったが、お婆さんは、手を合わせて流されているんだ。何か拝んでいたと思う。それで見えなくなりそうな時、俺に何か言っていた。たぶん、にげろ、だと思う。婆ちゃんは沈まずにずっと流されたのが見えていた」
 私は、阿部の繊細な心が壊れないか心配した。
「アベッツ良くやったぞ。お婆さんは捕まえていてくれたことで、心の準備が出来たと思う。手を合わせたのは神や仏を拝んでいたのではなく、お前へのお礼だったんだよ」
 そう言って肩を抱くことしか出来なかった。
 菅野は避難所の中にカメラマン連れて行っていた。中を案内していたようだ。
「有里のことは何か手掛かりはあるか」
 私は阿部を気遣いながらも聞いた。
「いや、すまん。今朝カンちゃんと合流してからは一緒に探しているんだけど、どこにいるか全く分からん。花屋の人も誰もいない」
 阿部の目の焦点が若干ずれている。私は休むように促した。
「カンちゃんの妹や両親、俺の親父も妻もみんなここにいるから。近い人で分からないのは有里と佐々木先生だけだ。珈琲茶房のマスターは今朝まで店の三階に取り残されていたようだけど、自衛隊のボートに助けられて今は門脇近くの避難所にいるらしい、珈琲茶房に良く行く警察の人が見たって言ってるから間違いないだろう。有里はどこに行ったものか」
 有里の最悪は想像していないようだった。
 私は現地にいる阿部がそう言っているのだからと思っていたが、それは全く違った。
 カメラマンを案内して出てきた菅野は、「東京にいる方が詳しいと思うよ。電気は通っていないし、新聞もない。ラジオだってみんな持っているわけではない。警察の人も自衛隊員も各地の状況には詳しくない」と。現地では全体のことは推測するしかないようだ。
 菅野はさらに、うな垂れながら話す。
「こんな時に神の名前とか呼んじゃ駄目だな。何も出来ない神様に逆に申し訳ないね」
 まともに食べていないので当り前だろうが、菅野はやつれた顔をしている。
「どうしたんだ、急に神様の話とかして」
 私は、若い頃船舶事故を目撃したことがある。それは悲惨で、傷んだ遺体を何体も見た。その日は口が開けない。話したとしても現実逃避した会話にしかならない。その日を思い出していた。

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