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(小説)星の降る街 11

マッサへ
 今日はレストランのお仕事を辞めてきました。前から申し出ていたので急ではありません。マッサに言うと気にすると思い黙っていました。花屋さんはしばらく行きますが、この間、マッサも会っている和子さんには、すでに事情は話していますから、いつでも辞められます。マッサの看病の時間に充てたいのです。経済的なことは心配しないで下さい。古い家を処分した時のもので十分、生きていけます。
 実は、告白したいことがあります。いつか言うべきだと思っていたのですが、きっかけがなくて悩んでいました。マッサは言いたくないことは口にしなくていい、と怒るかもしれませんが、私は隠したままではマッサと残りの時間を過ごせないと考えるからです。
 二十四歳のあの日、帰り際、あまりにも寂しくて、上野駅から仙台にいる高校の時に同じボランティア団体に所属していた他校の先輩に電話しました。仙台駅で待っていてくれた先輩の家に行き、その夜に結ばれてしまいました。自暴自棄になっていたかもしれないし、あるいはマッサと心のどこかで天秤にかけていたのかもしれません。先輩とは高校に入ってしばらくして一時お付き合いもしていましたが、それはかわいいものです。映画を観に行くのが精いっぱいの頃の話です。
 高校を卒業して大学に入ったらすぐにマッサが訪ねて来てくれて付き合い始めたので、先輩とはすぐにお別れしていました。でも、マッサ、私はずっと寂しかったの。友達が週末になるとデートしている時、私は一人ぼっち。マッサは東京にいるし、私もすぐに駆けつけるほどのお金はなかった。父にそういうことでは甘えられなかった。もちろん、月に一回のデートは会っているだけで楽しかったよ。
 でも就職してからのマッサは月に一回も来てくれないこともあった。私が東京を訪ねても、疲れているせいか機嫌もよくないことが多かったわ。とても辛く、早く別れたいとさえ思ったこともある。こんな気持ちは通じてなかったよね。
 しばらく先輩とお付き合いしたけど、心は満たされなかった。そんな時に先輩の子供を妊娠したの。私が先輩との結婚を決心して妊娠を告げると堕胎してくれの一点張りで最後は電話にすら出てくれなくなったの。理由は、まだ結婚をしたくない、というそれだけ言われたの。自ら蒔いた種とはいえ辛い出来事でした。
両親にも内緒で中絶しました。
 その後はマッサも知っての通り、佐々木先生が持ってきたお見合いに乗っかって結婚しました。だけど、今度は妊娠しませんでした、私は罰が当たったと思っていました。先方のご両親は私が不妊症ではないかと責め立て、毎日のように治療するように言われました。あの頃はまだ有効な治療などありませんでした。というよりも、私は一度妊娠しているのですから悪いところがあるはずはないのです。
 前の夫に「あなたも検査して」と何度も頼みましたが、怒るだけで、私に病院に行くように言うだけです。過去の秘密を口にしようとしました。「私は数年前に妊娠したことがある」と。結局は十三年間も辛抱していました。最終的には。跡継ぎを作りたいからあなたは不要、と言われ離婚させられました。
 結婚しているときに佐々木先生は何度も訪ねてくれて、話し合いに入ってくれましたが、余計にこじれるばかりで本当に疲労困憊したものです。これも私が蒔いた種です。お見合いの時に向こうの両親どころか夫さえ見ていなかったのですから。
 私はあまりにも弱く情けない人間でした。こんな私をマッサが知らないようにカンちゃんもアベッツも知らないと思います。
 ですから四十歳の誕生日が過ぎてしばらくしたころに父が脳梗塞で倒れ、寝たきりになった時は、私がいい加減だから罰が当たったと思いました。その頃に一時、神という存在を意識したことがあります。家には仏壇があるくらいですから当然、周囲の人と同じように曹洞宗ですが、私はキリスト教に魅かれていきました。
 教会にも通っていました。とくにこれと言った確信を持っているわけではなく、ボランティアでお菓子を作って施設に持って行ったり、讃美歌を歌ったり、時には神父さんの話に涙することもありました。
 堕胎だたいの懺悔。マッサを裏切った懺悔、理由はともかく離婚した懺悔。
 私には多すぎる罪があります。そんな毎日を過ごしているときに月の浦の祖父母が漁船で転覆して同時に亡くなりました。父は一人息子だし、親戚も少ないことから葬儀やら、その後の資産などの整理は大変でした。葬儀は近所の人がかなり手伝ってくれましたが、寂しい葬式でした。もちろん仏式です。
 私は毎週のように法事など仏教行事をしているために、教会に通うのが申し訳なくなってしまいました。中途半端な教会通いは余計に苦しくなると思って止めてしまいました。それで母もどこか安心しているようで、ますますサンティアゴの巡礼に行きたいとかは言えなくなりました。
 前後して女川の母方の祖父母もなくなり、私は次第に孤独な終わり方をするのではないかと恐怖すら感じ始めていました。二人は老衰でしたが、私は天に見捨てられたような気持ちになったものです。
 言わなくてもいいことだったのか、今の私には分かりません。でもマッサ、書いているうちにマッサに対して心を拓いていく自分を認識できます。
宗教は相変わらず分かりません、でもスペインのサンティアゴ巡礼に行きたいのです。テレビの特集番組を観た日、私は夢を見ました。まだあの頃はマッサとお付き合いは再開していませんでした。同窓会の前のことです。
 私が巡礼している時、小さな水たまりを越せずに立ち止まっているとマッサが負ぶって渡ってくれるのです。「あれ、いつの間に来たの?」と言ったら、振り向いたマッサは聖人のように髭を伸ばしているの。
 私は目が覚めると絶対に巡礼に出るって決めたの。
 その半年後に佐々木先生の計らいで再び正式なお付き合いになったわ。
 今夜はいっぱい書いてしまいました。

愛しているわマッサ
                                     有里

 長い二通目だった。
 手紙から目を離し、遠くを見渡すとパリに降り注ぐ光が建物に反射して、私に向かってくるかのように眩しかった。雨上がりのパリの街は淡く青い空の下で、白や茶の建物群が輝いていた。この風景を有里は見たかったのだろうと思うと切なくなった。サンティアゴの道が厳しくても歩かないといけないのだろうと気を引き締めた。
「有里、妊娠、中絶は気にするなよ。生きていたらいろいろあるさ」
 そう呟いた。
 モンマルトルは芸術家がアトリエを構えたり、まだ売れない画家の卵たちが安いアパートに住んでいたことでも知られている。ピカソやモディニアリ、ゴッホなども一時期住んでいる。今も往時と変わらないであろうレンガ作りの建物の前で、画家たちが絵を描いている。
 そんな並びで絵画の販売や似顔絵を描いている。私は有里と二人で映っている写真はあまりないことに気づき、有里の写真を渡して、私と二人で仲睦まじくしている絵を描いてくれと頼んだ。腕を組んでいるとか、頬を寄せているものとか。
「奥さんがお亡くなりになりましたか」
 絵描きは小さな声で聞いて来た。
私は英語で四苦八苦しながら頼んだが、日本語でそう返された。
「日本人ですか。驚きました。立派な髭を蓄えているのでアラブ系の人に見えました」
「私は青森の出身です。もう二十年近くパリで修行しています。実は二週間ほど前に奥さんを震災で亡くされた年配の方が同じような注文でした」
 顔の堀が深く、見事な髭を蓄えているが、優しい眼差しだ。
「そうでしたか、私も同じです」
「背景はモンマルトルにしましょうか、それともご希望はありますか」
 私はスペインのサンティアゴ大聖堂の前が理想的だと言うと、今は写真がないと分からないけど、明日まで滞在しているなら希望に添えると言われた。日本人ならまた震災の話になるかと思ったが、高峰さんという画家は何も質問しなかった。逆にフランス人などの絵描き仲間から質問の嵐にあって、私の気持ちが分かるのではないかと思った。
「明日の朝早くのTGVでバイヨンヌを経由して巡礼に向かう予定です」
「分かりました、間に合わせます。ホテルはどちらですか」
「モンパルナス駅のすぐ近くです」
 ホテルの住所を見せるとすぐに分かったようだ。
「私の自宅から近いのでホテルまで持参しましょう」
 と快く応じてくれた。有里の写真は何枚も持ってきているが、一枚の絵にして胸のポケットに収めれば一緒に歩ける気がした。

      *

 濃密という言葉は、充実した時間を誰かと共有した時によく使う。石巻の二人の五日間はとくに何かをしたわけではない。それにも関わらずお互いの心を解放して絡み合った。離れていた時を埋めるのではなく、未来に向かって接近し合っていた。愛情の深さとは心の積極度の高低で決まると思った。何日たっても風化しそうにはなかった。まさに濃密な時間を得たのである。
 有里が石巻に帰った後、仕事の区切りを早く付けようと文京区の会社に出かけていた。その三月九日の昼前に、プロダクションのある古いビルは震度四くらいに思えるほど揺れた。私が驚いていると赤田社長は「たぶん二くらいだよ。このビルは揺れるからね」と笑いながらテレビを付けた。画面には震源地は三陸沖で宮城県栗原、登米、美里が震度五弱で石巻などが四となっていた。マグニチュードは七・四と大きいが東京は赤田社長の体感通りに震度は二だった。
 私は石巻の小学校に転校して間もない地震を思い出していた。
 一九六八年五月十六日、すっかり石巻の生活にも慣れて有里の家にもよく遊びに行っていた。お父さんはトラックの運転手をしていて朝が早く、お母さんも一日置きに青果市場にパートで行っているので、朝迎えに行くと一人の時も多かった。
 その日は集団登校の場所に有里が時間になっても来ないので、家まで迎えに行った。
「おーい、有里、なにやってんだ、遅刻するぞ」
 返事がないので家の中まで入った。
「マッサ」
 と二階から力のない声がした。慌てて駆け上がると、買ってもらったばかりの自慢のベッドの上で真っ赤な顔をして唸っていた。額に手を当てると凄い熱さだった。私はどうしてあげたらいいか分からず、母を呼びに行き、有里をすぐに近所の医院に連れて行ってもらった。母もパートで近くのスーパーに仕事をしていたので、有里の付き添いは私が学校を休んですることになった。
 部屋に戻って、有里がベッドに入ってすぐだった。
 ドスンと大きな音がしたと思ったら左右に揺れ始めた。有里は飛び起きてベッドの上で四つん這いになった。私はベッド近くにあるカラーボックスが倒れると思いずっと押えていた。初めての地震体験だった。かなり慌てて、「有里気を付けろ」とか言った記憶がある。有里は確か気丈にも「マッサ大丈夫だから」とか言っていたが、地震が収まったら途端に泣き始めた。私は有里が寝てもその傍で、小学校の担任の先生が心配して給食を持ってきてくれるまで固まっていた。
 私の中では震度四は大事件だった。
「有里、石巻は震度四ってニュースで言っているけど、大丈夫なの」
開口一番、有里も同じことを思い出していたようだ。
「六年生の時の十勝沖地震を思い出したね。あの後も地震はいっぱいあるけど、私にとってはあの時が一番怖かったし、マッサとの貴重な思い出だわ。でも今は泣かないけどね」
 そう言って電話口で笑い続けた。
 テレビでは想定している宮城沖地震との関連はないなどと深刻さは微塵も感じさせない記者会見が行われていた。解説でも大変そうな話は出ていなかった。有里も同じニュースを見ていたのか「これからお花の配達に行くからね」とあっさりと電話を切った。
 翌朝は、このところ癌ばかりを気にしていて、元々の病気、嚢症のことをすっかり忘れていた。仕事で根を詰めすぎたのか頬が腫れ上がり激しい頭痛がしていた。抗生物質や消炎剤や痛み止めはすべて切らしていたので、癌を発見してくれた耳鼻科に出かけた。医者はまだ手術をしていないことに驚いていたが「癌は痛くも痒くもないけど、頭が痛い」と言うと、「嚢症の痛さに癌が逃げて行ったね」と笑った。
これだけ痛いのだからそうなって欲しいと思った。
 翌日も痛さと高熱で寝込んでいが、昼食を取り、薬を飲んだら楽になってきた。その時、午後二時四十六分、まるで地面が裂けたかのような轟音ごうおんがしたかと思うと左右に大きく揺れ始めた。棚の何かが落ちた音がしたが、私はパソコンを守りながら、書棚を押さえ続けていた。しばらくしても収まらず、延々と続いた。体感では五分くらい続いたかのようだった。

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