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(小説)星の降る街 10

 同じ喫茶店ではあるが、今は少し気が重い。
 人のさそうなマスターは「お二人はお似合いだと思っていましたよ」と呟きながら珈琲をそれぞれの前に並べた。有里はずっと地元なので、マスターに覚えられていても不思議でもないが、どうして私たちの関係まで知っているのだろう。気になって聞いてみた。
「佐々木先生が昨日来られましてね、明日は今度仲人をすることになるはずの二人が来るって言っておられましたよ」
 私はどこまで話が進んでいるのか不安になった。どうも病気で悩んでいるとは言えそうにもない。普通の状態なら友人や周囲の人にどれだけ感謝してもたりないくらいの気遣いだ。だが、今の私には余計なおせっかいとしか思えない。
 それにも拘らず、現実にはこうして石巻まで来ている。背中を押されたいだけなのだろうか。それではあまりにも有里に対して不誠実だ。自ら行動を起こさないと意味がない。
「学生の頃に東京からよくいらして掛井さんとうちに来てくれていましたよね。あの頃からそうなればいいと思っていました」
 マスターは二人の経緯を知りつくしているようだった。テーブルから離れる際に慈悲に満ち溢れている顔だと思った。何度か訪れて印象深かった京都の東寺に安置されている仏像曼荼羅が浮かんだ。そう思った瞬間にボッチチェルリやベラスケスの描いた宗教画の眼差しが脳内で点滅する。自分の思考に戸惑うのが最近の習い性となっている。マスターの雰囲気はどちらにも似ているから不思議だ。
 こういうたくらみをするのは阿部しかいなかった。
「有里が悩んでいたからさ、既成事実を先に作るってやつだよ」
 あっさりと認めた。有里が何度も阿部に相談したようだ。
「そうか、あのなあ」
 私が癌の話をしようとしたら有里が、
「ごめんなさい、二人にはすぐに知らせたの」
 口では謝っているが、有里の表情は緩んでいた。
「水臭いぞマッサ、俺もカンちゃんも昔から仲間じゃないか。出来ることはなんでもする。だいたい元気そうじゃないか、絶対に治るさ」
 阿部はいつもの大きな声だ。菅野は知っていて、知らないふりをしていてくれたと思うと、優しさが身にしみる。
「癌になるのも悪くないな、みんな優しい」
 そう言うと、
「おだずもっこ」
 と阿部と菅野に同時に言われてしまった。確かに調子に乗っているのかも知れない。翌日の日曜日に阿部の自宅で昼食を共にするということで別れた。私は阿部が車でホテルまで送ってくれると思っていたら、菅野と二人で帰ってしまった。
「行きますよ」
 と有里は言って寒さをものともせずに前を歩き始めた。
「ホテルは遠いよ、タクシーを呼ぶよ」
「白石島のお返しね、ホテルは予約してないからね。うちに泊まって。私が引っ越してまだ来たことないでしょ。ホテルと同じくらいの距離で少し遠いけど歩いて行けるよ」
 子供の頃に住んでいた家は日和山に登る坂道が長いのでアイトピア通りから歩くには遠い。有里の借りている家は古い市役所よりも少し麓寄りだから歩けるという。珈琲茶房から日和山に登る道に入り、少し歩いただけで着いた。大きくはないが白く塗られた外観は洒落ている。一階が台所と洗面所や風呂、リビングで二階が寝室と小さな仏壇を置いてある和室に別れていた。
「良い感じの家だね」
 私は家の中を一通り案内されても、まだ居場所を作れずにソファーの横に立っていた。
「一人では大きすぎるね。でもね、一間とか二間のアパートで十分だと思ったけど、逆に寂しすぎると思ったの。ねえ、着替えて。二階の和室に荷物とか置いてね」
 私は仏壇に線香をあげた後に着替えて下に降りた。
 外は岡山や東京とは比べものにならないほど寒い。しかし、有里は出かける前に暖めていたのか快適な気温になっていた。どうやらエアコンと石油ファンヒーターの両方を使い分けているようだ。
「石巻河南のインターの近くに大型のスーパーがあったでしょ。これから行かない?」
「そうだ、ホテルのつもりだったからパジャマとか持ってきてないよ」
「石巻用に下着とか一式買っておこうね」
 有里はこの先の生活設計を決めているようだった。
 石巻の五日間は瞬く間に過ぎた。阿部の奥さんの奈美さんや菅野の妹、千世さん夫婦や佐々木先生と奥さんとも親しさが一層高まった。有里が勤めている花屋の和子さんら新しく石巻の輪が出来始めていた。もう引き返せない。このコミュニティーで生きて行こう、仕事はなんとかなるだろうと漠然と考え始めていた。

 国立国際医療研究センター病院での検査結果も結局は変わらなかった。医師からは三月二十二日の手術はどうかと言われた。「今なら簡単です、やりましょう」とまるで気軽に飲み屋にでも誘われるような明るさで言われた。私は生返事をして、後日に手続きをするために来院するとだけ言って帰った。
 有里は石巻日赤病院もあるんだから、とりあえず東京の仕事を辞めて石巻に一緒に住むことにこだわったが、それは気が重く、仕事を急に辞められないと言って有里への返事は保留にしていた。実際に進行中の書籍は多くの資料でのチェックが必要なもので二ヵ月はかかりそうだった。
「それなら私が東京に二ヵ月間行きます」
と毅然として有里は言い放った。
 有里は三月五日に突然東京に来た。
「マッサを石巻に連れて帰りたいけど、それは先でもいい。今日来たのはね、スペインのサンティアゴ巡礼の手続きに来たの」
「唐突にどうしたの?」
 有里の家にスペインの巡礼の本はたくさんあって、テレビで特集番組を観て益々行きたくなった、と石巻に滞在した五日間に何度も聞かされ続けていた。まずパリに行って巡礼の前にノートルダム寺院などに絶対に行く、と。それは夢を語る少女の願望のようなものだと私は思っていた。
「マッサも行くんだよ。一気に歩かなくてもいいの。何年かかっても大丈夫だって。だから最初の一週間分を歩きに行こうよ。白石島では回れなかったけど、今度はちゃんと歩こうよ。だからそれまでに手術してね。早く決心して。手術が終わったら、悪性腫瘍のないマッサの体をみんなでサポートしながら歩くからね」
 私は思い出していた。
 戦国時代、伊達藩が送った、慶長けいちょう遣欧けんおう使節団しせつだん支倉はせくら常長つねながに同行した伊達藩藩士の一族を有里は先祖に持つ。父方の月の浦の祖父母の家がそうだった。その家臣は病気になりローマに行くことが出来ずスペインにとどまった。付き添った他の家臣らも含め何人かが現地で結婚して、四百年後の今はスペイン語で日本という意味のハポンという名字でスペイン各地に子孫がいるという。
 そのハポンさんの一人が高校生の頃に石巻を訪れてサンティアゴ巡礼の話をしていて、有里はずっとスペインに憧れをもっていた。
 確かに自分と同じ血の流れている人が遠い異国から訪ねて来て、神秘的な巡礼の話をするのだから行きたくなる気持ちは理解できた。だけど、私の病気を克服するための祈願で行くのは少し違う気がする。キリスト教的には祈願ではないだろうが、唐突な感じは否めない。しかもかなりの距離で、登山のようなコースもある。私もテレビでは何度か見ている。
「アベッツやカンちゃんにも声を掛けたら、五月の連休に行くことに決まったよ。本場のパエリアが食べられるとかフラメンコも見たいとか暢気なこと言っているけど、私たちが気にしないようにはしゃいでいると思う。ありがたいね、みんなマッサのことを心配している」
 あまりにも急な話だったが、どうやら三人の間ではかなり進んでいるようだ。私は手術をするとかしないとか、石巻に行くとか行かないとか、考えないことにした。流れに任せるのも悪くない。
「でもね、有里がすぐに東京に来るのは反対するよ。いずれ石巻に行くからもう少し治療方針などの答えを待ってくれないか。中途半端な気持ちで大きな行動は取りたくはないんだ」
「分かってるよ。焦らずに答えを出してね」
 有里はそう言って、それ以上は何も口にしなかった。
私の部屋を丁寧に掃除して、翌日は一人で出かけた。サンティアゴの巡礼に必要なクレデンシャルと呼ばれる巡礼手帳を貰って来たようだった。日本にも友の会があり発行の代行をしているという。
 スペインのサンティアゴ巡礼に行きたいというのは、いろいろな理由はあるだろうが、私の病気回復を願っていることは明らかだ。有里はテキパキと何かをする性格は持ち合わせていないはずだが、今の有里には口を挟ませない迫力がある。
 帰り際、いつか必要になるかもしれないと、石巻の家の鍵を日和山にある鹿島神社のお守りに結び付けて置いて行った。サンティアゴ巡礼の話を熱心にしたり、白石島の開龍寺のお札を大事に持って帰ったり、めちゃくちゃだと思ったが、有里は「これが日本人の平均的な宗教感です」と大真面目に言って部屋を後にした。
 そういえば、平安時代末期の西行法師も真言宗に帰依しているにもかかわらず、
「何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
と伊勢神宮に参拝した際に詠んでいる。有里が特別なわけではない。
 有里の指揮するところで、人生のコマ送りを早めることもいいのではないだろうかと思い始めていた。

     *

 パリに着いて三日目の朝、前夜の飲みすぎで頭が重かった。それでも薬を飲むために少しでも食事をしようと一階の食堂に行くと、しばらくして笹井から電話が入った。
「先ほどテレビニュースを見ていたらフランス、スペイン国境のピレネー山脈、バスク地方とも大雨で巡礼の人たちが足止めされているのが映っていました。道路の一部は川のようになっていましたね」
 私は白石島四国八十八ヵ所の時と同じように、また行けないのではないかと不安が脳裏をよぎった。
「明日はどうなんでしょうかね」
「天気予報では今日の夕方には雨は止み、その後は晴天が続くと言っていましたので、一日ずらすだけで大丈夫でしょう。おそらく、出発地のサンジャンは足止めされた人で、巡礼宿もホテルも混み合っていると思います。もう一日パリにいて明日朝の出発をお勧めします」
 笹井は気の毒そうにアドバイスしてくれた。
「それにですね、菅野君からの厳しい伝言ですが、巡礼路のほぼ折り返し地点のレオンの病院に行ってくださいね。体調が悪くなくても必ずとのことです。お渡ししてあるリストの中にあります。六月十日に予約を入れておきました。前日までにはレオン市内に入ってください。ゆっくりと歩いても余裕はあると思います。ホテルは二泊にしておきましたので、レオンでは体を休めて後半に臨んで下さい」
 フロントで延泊の手続きをした後に、モンパルナス駅から地下鉄でモンマルトルの丘に向かった。
 有里の作った巡礼計画書の「時間があったら行きたい場所リスト」の中にあったからだ。モンマルトルの丘はパリ市内の北部に位置し、ランドマーク的な存在でもある。モンパルナスから地下鉄を使えば一本で行けるので案外早く着いた。頂上まではきつい階段となだらかな坂道があったが、土産物店やカフェが多い坂道を選んだ。
 有里が行きたいと書いてあったのはサクレ・クール寺院だ。遠くからでも見える真っ白な建物で隣のサンピエトル・モンマルトル教会とともに丘の頂上の風景を構成していた。調べてみると、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルら聖人たちがイエズス会を結成した地でもあった。有里はその辺りが、気になっていたのかもしれない。
 厳かにミサが行われていて、神聖な気持ちにはなるが、有里がキリスト教や巡礼にのめりこんでいく心境を解き明かすヒントはなかった。
 教会を出て、パリ市内を一望できる階段に腰掛けて有里の手紙の二通目を開封した。

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