「Road 96」感想:モブキャラから見る群像劇。一期一会の断片的な短編も、繰り返すことで長編となる
1996年。
独裁国家ペトリア。
プレイヤーは、その国の「とある少年、または少女」となり、この国から抜け出し、自由を得ること。
それがこのゲームにおける、「一応の」目的です。
しかし、このゲームの魅力はむしろ、国外へ脱出できたかという結果よりも、「その過程」に存在します。
国外脱出(または脱出失敗、死亡)へ至る過程で出会った人々、交わした言葉、与えた影響。
それらを紡ぎ合わせることで、まるでモノクロの写真にどんどん色が浮き出てくるように魅力が沸きあがってくるのです。
それがこの、「Road 96」。
一言でいうと、「モブキャラから見た群像劇」です。
前述の通り、主人公が操るキャラクターは、独裁国家ペトリアからの脱出を目標としています。そしてまた前述の通り、「とある少年、または少女」なのです。
どういうことかというと、このゲームにおいて重要な要素の一つとして、主人公はいません。プレイヤーの操るキャラクターは主人公ではなく、ただ国から脱出をしたい「モブキャラ」です。なんと、名前もありません。ゲームは一人称なので、顔もわかりません。辛うじて性別が分かるくらいで、背格好なんかも不明です。
そんなキャラクターが、徒歩や、ヒッチハイクや、バスや、タクシーや、車泥棒にて、遠く離れた国境を目指していくのです。
「とある少年、または少女」と記述したのも理由があります。
脱出を目論んでいるのは一人ではありません。一人目のキャラクター(プレイヤーが操るキャラクター)の脱出劇が終了したら、また次のキャラクターで再び脱出を目指します。なので、プレイごとに操るキャラクターがどんどん変わっていくのです。名前もなく、少年を操ることもあれば、少女のときもある。だからこそ、プレイヤーが操るのは「とある少年、または少女」なのです。
では、このゲームいったい何が魅力的なのか。
それはまさに、群像劇をモブキャラから見せるデザインと、同時に自分の行動で生死も含めてどんどん変化していく物語、お金と体力のリソース管理、飽きさせない遊び心。様々なプレイスタイルを許容し、葛藤させるその選択の幅の広さがとても魅力的でした。
群像劇を「モブキャラ」から見る
まずは、最も魅力的だと感じた「群像劇」の部分です。
根本的なゲームシステムから紹介する必要がありまして、このゲームは先ほど書いた通り何人もの「脱出を目指す名もなきキャラ」の物語を紡いでいくんですね。
主人公が操るキャラクターは、スタート時点で毎回お金をほとんど持っていません。数ドルから十数ドルくらいしかもっていませんので、脱出する国境まで、食事や交通費を考えると全然足りないわけです。
また、このゲームには体力というリソースがあり、移動したりすることで減少します。お金は無くても旅を続けることは出来ますが、体力が無くなった場合、脱出は出来なかったというエンドになります。
そう、このゲームは必ずしも脱出できる、というわけでは無いのです。脱出できるかどうかは、プレイヤーの腕次第。プレイヤーの選択次第となっています。
お金をどうにか稼げば食料を買うことが出来ますし、またバスやタクシーを使い、体力の減少を抑えて国境に近づくことが出来ます。
つまりは、プレイヤーはお金や体力に気を使いつつ、どうにかそれらを減らさないように(増やすように)行動する必要があるわけです。
そんな、貧乏旅行とも言えない、ある意味極限状態の旅。
助けになるのは、「一期一会」の人々です。
それは、天才的な知能を持つ少年か、音楽好きな家出少女か、それとも警察官かトラック運転手か。はたまた、強盗二人組か。または、殺し屋か。
色々なキャラクターと巡り合うことが出来、そして別れながら、プレイヤーは国境を目指します。
この「一期一会」。その名の通り、彼ら出会う人々はあくまで一瞬、時と場所を共にするだけなのです。それはバスの乗り合いか、たまたま居た店に強盗に入ってきたか、徒歩で道を歩いているときに絡まれるか。とにかく何らかのきっかけで出会い、会話や行動を共にし、またすぐに別れます。
もう、「ここ」なんです。
一期一会という精神のもと、彼らキャラクターと過ごす時間は短いですが、しかし断片的に彼らの哲学や目的、行動を知ることが出来るのです。
そして、ひと時の短い時間を共に過ごした後、またそれぞれの目的に向かうため、別れることになります。
プレイヤーの操るモブキャラが国外への脱出成功/または失敗を経て、またゲームは、プレイヤーに別の名もなきモブキャラを操作させます。
また、「二人目の名もなきキャラ」にて国外脱出を目指すのです。
するとどうなるか。
再び、その「二人目の名もなきキャラ」による、一期一会の旅が始まるわけです。
そしてそこでは、「一人目のときに出会い、少しだけ話をしたキャラクター」と、邂逅する可能性が出てくるわけです。
もちろん、プレイヤーが操る少年/少女は、相手のキャラクターにとっては初対面。一人目のときのように、初対面同士の短い交流を行い、そして別れ、体力やお金に気をつけながら、プレイヤーは国外脱出を目指します。
このときに交流したキャラクターは、プレイヤーが一人目の名もなきモブキャラで国外脱出を試みた際に、出会ったキャラクターかもしれません。それはつまり、「操作している『キャラクター』の視点では初めての出会いでも、プレイヤーの視点では『二度目』の出会いである」ということになります。
このゲーム、最終的には9回ほどプレイヤーは国外脱出を目指します。要するに、9人の名もなきキャラで国外脱出を目指すのです。
すると、9人も操作するうちに、(プレイヤー視点では)同じキャラクターと何度か交流するわけです。そのうちに、何度か交流したキャラクターについて、性格や目的、実は他のキャラクターとこんな関係だった、など、「決して一人目の操作のときにはわからなかった」情報が積み重ねられ、一人のキャラクターについて深く知ることとなるのです。
交流対象となるのは7人のキャラクター。彼らに、プレイヤー視点では何度も名もなきモブキャラで国外脱出を行う過程で出会い、理解を深める。
例えるなら、あなたにこれから1週間、別々の人が訪ねてきて、秘密をひとつずつ、合計7つ教えるとします。
月曜日の人には現在の貯金額、火曜日の人には初恋相手、水曜日の人には最も嫌いな人...など、7人にそれぞれ一つずつ秘密を教えたとき、それぞれの曜日に訪ねてきた人は一つずつ自分の秘密を知っているわけですが、もし彼らを操っていて全ての情報を知ることが出来る人がいたとすれば、その人はあなたの秘密を7つ全て知っている状態なわけです。
このゲームに置き換えると、「曜日ごとに訪れてくる人」はプレイヤーの操作する名もなきモブキャラで、「秘密を全て知っている人」が、このゲームのプレイヤーなのです。
なので、プレイヤーは神の視点から全てのモブキャラの経験を知識を得ることで、このゲームにおける各登場キャラクターの真相を知ることが出来ます。
その、群像劇をモブキャラから見ているという斬新なシステムに、すっかり虜になりました。
自分の行動で変化する物語
このゲームにおいてプレイヤーが操作できるタイミングは、「国外脱出を目指して移動の最中」か、「移動と移動の合間のイベント」のタイミングとなります。
基本的には両方を順番に行い、徐々に国境に近づいていきますが、この部分でプレイヤーは「移動の方法」を決められるのです。
先ほども書いた通り、移動方法は、徒歩や、ヒッチハイクや、バスや、タクシーや、車泥棒と、多岐に渡ります。どの方法で国境に進むかを、プレイヤーは選択することが出来ます。
この時点で、どの移動方法を選んだかによって、一人なのか、誰か会話相手がいるかが異なってきます。つまるところ、選んだ移動方法により物語が分岐するのです。
どんなキャラクターと出会うか、または出会わないか。移動方法によって異なるため、一つとして同じストーリーとはなりません。プレイヤーの数だけ物語が存在する、既存のゲームで言えば「Detroit: Become Human」に一番似ていると思います。
ほかにも、独裁国家を変えるために、選挙を勧めるか、力で革命を起こすかを選択されることも。そんな、直接的には関係のない選択も存在し、常にプレイヤーは決断を求められます。
そんな、自分の選択で物語が分岐する面白さを体験できるのも、このゲームの魅力です。
さらに付け加えると、プレイヤー操るモブキャラクター、簡単に「国外脱出に失敗」します。それは空腹なのか、警察に見つかるのか、殺し屋の逆鱗に触れて殺されるかはわかりませんが(プレイヤーの選択次第ですが)、容易にそのルートに陥ることがあります。
やはり、これはモブキャラだからでしょう。名前のある、CVのあるキャラではここまで雑に扱えません。しかし、名もなきキャラだからこそ、この「すぐに死ぬ・失敗する」といったイベントも、物語次第で発生するのです。
この緊張感もまた、面白さに寄与しています。
お金と体力のリソース管理
いわゆるリソース管理の面白さもあります。
最も重要なのは体力。これは眠ったり、物を食べることで回復します。体力がないと、行き倒れてしまいます。
しかし、しっかりしたホテルで眠るにはお金が要ります。または、ちゃんとした食べ物・飲み物を買うにもお金が要ります。例えば、ヒッチハイクした車で眠れたり、段ボールで寝たりすることで回復することはありますが、しかしそのタイミングがあるかどうかはかなりランダムです。一方、食べ物や飲み物を買うタイミングは上記の眠るタイミングより多くあるため、お金があることは体力維持、生命活動の維持に直結するわけです。
もちろん、徒歩で移動するよりバスやタクシー、ヒッチハイクのほうが体力の減りは少ないので、乗り物に乗るお金もあるに越したことはありません。
このあたりのリソース管理もプレイヤーには求められます。
お金があればタクシーに乗り、国境を目指すことも出来る。
ではどのようにお金を得ることが出来るのか。ここがまた、かなりランダム要素が高い部分となっており、決まったルールはありません。だからこその、行き当たりばったり、運要素となり、それが面白さに変わるのです。
それこそ、車に落ちているお金をくすねることもあれば、出会った人にお金を恵んでもらうこともあり、または急遽アルバイトを頼まれ、その報酬としてもらうことや、スクラッチくじの当選でもらえること、さらには飲食店の裏口に侵入し、金庫からお金を盗むこともあります。その方法は、プレイヤーが自分で選ぶのです。
とにかく多様な、予想もできない手段でお金を手に入れ、国境を目指す。マルチなストーリーにぴったりの、ランダム性の強いお金の手に入れ方、そしてそれを移動なのか食事なのか、どのように使い国境を目指すか。
国境までの道筋だけでなく、お金の管理も考えて先に進むことが、予定調和でない不安の中を予想しながら進む面白さに結びつき、あたかもガチャを引くかのようなワクワク感に繋がりました。
飽きさせないミニゲーム
非常によくできているのが、ミニゲームです。
ゲームプレイ中、非常に自然な形でミニゲームを遊ぶことが出来ます。そしてどれも、なかなかのクオリティなのです。
「君、これで演奏してみなよ」で音ゲー、「ちょっと君、カメラであそこ撮ってよ!」でカメラで取引の現場を撮影、少年とゲームで遊ぶことや、バーテンダーの一日バイトをさせられたり。ただの選択型アドベンチャーゲームではなく、飽きさせない気配りを感じられました。
終わりに
小説でも、ゲームでも、映画でも、「群像劇」を観測しているのは「客」側です。
つまり、小説なら読者、ゲームならプレイヤー、映画なら観客。
そのエンタメを観測している人だけが、全ての事象を把握し、誰と誰が繋がりどの事件とどの事件が影響し合っているかを把握することが出来る。
それこそが群像劇の面白いところだと思います。
「Road 96」も群像劇ですが、やはりプレイヤーがモブキャラというところがまさに革新的でした。
モブキャラでありながら、紆余曲折しつつ国外脱出を目指す。
プレイヤーはもちろんそれが唯一の目的であり、モブキャラの物語なのですが、ここで一期一会として関わったキャラクターがまた別のモブキャラプレイ時に関わってくる。自分でなく他人で群像劇が生成される仕組み、素晴らしかったです。
いつの間にか、国外脱出から他のキャラクターの物語のほうへと興味の比重が大きくなるんですよね。そして、プレイヤーは繰り返す脱出物語の過程で、断片的だったキャラクターの目的や背景を知る。
同じようなプレイをしていても、同じような目的でも、それでも回を重ねるごとに面白くなっていく。
「グノーシア」や「風来のシレン」のような、目的や手順はわかっているのに物語が毎回毎回ランダムなゲームの印象でした。
多少翻訳がおかしいところがありますが、ほぼ問題なく物語を進められますし、途中で手に入れられるカセットテープもまた、コレクションしたくなる魅力があります。適宜、手に入れた曲を聴くこともできます。
旅らしさを演出する音楽も魅力的
プレイするごとにランダムなイベントが発生し、一人として同じストーリーが出来上がらない本作。
自分で物語を決めるナラティブなゲームはプレイに長時間かかりがちですが、私は約8時間でクリア。
10時間以下でクリアできるボリュームながら、断片的な群像劇という点が、プレイヤーの想像力を掻き立て、決してボリュームが足りないとは感じませんでした。
お金が無かったら、物乞いするのか、探すのか、稼ぐのか、盗むのか。
移動手段が無ければ、歩くのか、ヒッチハイクするのか、タクシーに乗るのか、車を盗むのか。
そして、独裁国家から抜け出せるのか。
それまでに出会った人に対して、どういう印象を持つのか。
ふと2周目を始めて見れば、そこには全く見たことの無いイベント。
まさにプレイヤーの数だけ物語のあるゲーム、ぜひ国外脱出という旅を通して、自分の倫理観や性格で遊んでみてほしいゲームです。