『クリスチャン・ボルタンスキー Life time』を観た(2019/7/19)
私は大地の芸術祭で『最後の教室』を観て以来、クリスチャン・ボルタンスキーの作品が好きだ。
瀬戸内国際芸術祭でも『ささやきの森』と『心臓音のアーカイブ』の鑑賞は外さなかった。
亡くなり忘れ去られても尚根付いている、確かに存在していたという痕跡や、全ての生物に平等に与えられた”死”について滔々と語っているかのような、且つ、郷愁も感じられる作品が好きだ。
なので国立新美術館で開催された大回顧展Life timeにも期待を寄せていた。
入口で頂いた作品リストは新聞紙のようだった。展示順に作品紹介が書かれておらず、ごちゃごちゃで何とも分かりづらい。
しかしこれは意図があっての事で、まず鑑賞者は予備知識無しで一巡しての感想を大事にして欲しい。というニュアンスらしい。
それでは私も予備知識のほぼ無い率直な感想を大事にしようと思う。
会場内部は薄暗く、冷房が効き過ぎなくらいだった。
初っ端に登場するのは初期の映像作品。
『咳をする男』というタイトルだけれど咳というよりもずっと嗚咽していて、つられて吐きそうになるぐらいしんどい映像。
なかなかにグロい。
しかも隣の展示スペースまであのしんどい嗚咽が聞こえてくる。結構きつい。
その後の空間も薄暗く、薄気味悪い。
壁の高いところまで貼り付けられている古い家族写真。
教会のような燭台やモニュメントと共に立てかけられた顔写真と床に置かれた箱。
淡々と何かの数字を刻み続ける電光掲示板。あまり気分は良くない。
悪趣味な夢を見ているようだ。
優しい灯が漏れるカーテン越しにオバケが通り過ぎる細い道を抜けると、山積みにされた黒い服。
鈴の音が鳴り響く映像。
近づくとささやいてくる黒いコートを着た木。
私はもう死んでいて、死の瞬間はどんなものだったのか質問を投げかけられているんだろうか。
この先に続く、鯨との対話を試みて鯨の声に似せた大きな音を鳴らす装置が設置された海岸の影像は、切なく感じた。
永遠の問い。永遠に返ることのない答え。虚しさが押し寄せる。
何故かこの空間は美しいと思った。
軽薄なノリの”来世”のネオンが見えた時に、何となく生き物の生死の循環は、神視点に立てばただのシステムなのかなと感じた。
悲惨な事件も恐ろしい災害もささやかな奇跡も、本当は神の試練でも罰でも導きでも無く、神にとっては何の意味もない現象に過ぎず、誰にでもなりうる事。
ただ無感情にサイクルを続けているシステム。
特別な人間なんてのもいない。
私達はその流れを受け入れる事しかできない。
そしてこの展示空間は、生死の境界線上を進んでいて、あの世での審判待ちといったところなんだろうか。
そう考えると、最初に出てきたグロめな映像作品は生きている頃の恥ずかしいエピソードを振り返させられているところ、若しくは生の象徴で、家族写真は走馬灯だったのだろうか。
私が今までに観たクリスチャン・ボルタンスキーの作品は、亡くなったものの存在を感じ取り、存在していた時に思いを馳せて美しさを感じていたけれど、Life timeの展示空間では鑑賞している自分自身が亡くなった側になったかのようで、冷や汗が出るような恐怖と空虚さを突きつけられた気がした。
ここ数ヶ月で世の中の価値観が目紛しく変化している今日この頃、観た当時は陰鬱で大きな壁を感じた展覧会が『人生、生きたもん勝ちだぜ!』というエールだったかのようにも感じる。
私は今をしっかり生きていきたい。
期間:2019/6/12~9/2
場所:国立新美術館
料金:1,600円
※一部写真撮影可