vol.6 新生姜ごはん
修業時代1年目の6月の炊き込みご飯は新生姜ご飯でした。ファイルに保管してある献立を見返すと、当時の記憶が甦ってきます。それは新生姜を全体的に見た際の羽毛のように軽やかな象牙色、それとは対象的な、茎部分の明るく澄んだ躑躅色(つつじいろ)に、またはそれらの色彩とは対照的なごつごつとした形と手触りに、はたまた刻んだ際の爽やかな芳香、湯がいた際の芳香の拡散的な動きを味わうたびに自然と連想されて思い出されてきます。
今回は爽やかであり、そして辛い。この余韻とキレの合わさった味を若さゆえに口一杯に頬張った、深く浅い物語です。
新生姜の仕込みは正確な分量は覚えていませんが、段ボールひと箱分になり、確か4,5キロ単位で仕込んでいたかと思います。買ったばかりの薄刃包丁が使えるので、「プロのように一気にやってやろう」と、当初は喜び勇んで取り掛かったものです。3ミリ程度の厚さにスライスした後に、同じく3ミリ程度の幅で千切りにしていきます。長さは3センチくらいでしょうか。このサイズになるべく揃えていきます。
私は新生姜という食材をその時、初めて知りました。ですので教わった通りに切り進めながらも、見た目に優しそうなものが存外手強いことに驚きます。特に形状です。注意深くスライスしていかないと指を切りそうで、その不安から勢いを削がれました。しかしゆっくりやると練習にはなりません。ですので改めて段ボールに入った新生姜を眺め、所要時間を予想します。そして2時間は掛かりそうだと直感的に感じると、上半身に強い向かい風を受けたような感覚を憶え、瞬時に苛立つのです。そして、小さな溜息を漏らしつつ、
「まぁ、1時間だな」
と、私は心中呟き、無意識に目標を立てているのです。すると、俄かに肩に腕に上半身に力が入り顔色が気色ばみます。これはこの時代を競争心を持って生きた人には理解して頂けるかと思いますが、習性であり、反射なのです。新生姜に手強さを感じた時から顔色が気色ばむまでの流れは全てが無意識の連続だったように思います。一つ不安を憶えると、意識が不安だけでなく、感情そのものを遮断し、心の内や身体内部を覗き観ることを閉ざします。そうして意識が外部環境を観ることに集中すると、骨格筋が無意識に勢いづくのです。つまり、交感神経が即座に優位になり、血流が頭と心肺を中心に循環し、戦闘態勢を整えるのでしょう。
新生姜を左手で押さえサクサク切り進めていくと、徐々に押さえづらくなってきます。そうなると寝かせてへぎ切り(水平切り)にしていくことになります。しかし心は逸り、早く切りたいと焦っていますので、ギリギリまで手で押さえて不安定な態勢で切ろうとします。最後の一枚を切る際には、左手の指は爪の先で新生姜を押さえることになります。これが充分に大きな塊であれば、半分くらいまでスライスすると、今度は切った面を底にしてスライスすることができます。そうすると新生姜が安定して俄然、切りやすくなります。
そうやって、形状と大きさを考えながら最速でひと塊を切り終えられると、一瞬、心が凪ぎます。これは小さな快とホッとした安心感を憶える時、熱い血液は下半身へと流れ、圧と熱の引いた頭と胸のあたりにそよ風が吹きいたように感じるということです。吐く息がとても心地良いのです。
そして後でまとめて千切りにできるように、ひと塊ずつパットに並べます。ところがこの量が増える度に新生姜の爽やかな香りが鼻腔から胸腔へとはやてのように駆け抜けていきます。そうすると一秒でも早く切ることで一杯だった記憶が頭を掠めます。そして呼吸は再び、自然と深く早くなるのです。その時、左手は既に次のひと塊を掴み、右手は包丁を前後に力強く動かし始めています。そしておっとりとした私の頭も再び、後れを取らないように忙しなく回り始めるのです。
なんと忙しいのだろうと、思いが頭を掠めます。
この忙しさは爽やかな香りを持つものの時の流れなのだろうかと感じてしまいます。このようなことを言うと、きっと、頭のおかしな人だと思われるかもしれませんが、類似性が近しい概念を跨ぐのではないかと思うのです。
私たちは普段、外部環境を判断するにあたって、物理的な現象と心理的な現象という異なった概念を当たり前のように結び付けています。
例えば、ある人がマラソンをしているとします。ゴール間近になると、その人は表情をキリリとさせ、ラストスパートをかけているようなフォームを取ったとします。この動作を見て私たちの多くはその人が残りの力をすべて出し切ろうと本気を出しているのだろうと判断し、タイムが伸びているだろうとまで予測するのではないでしょうか。
これが逆に、ゴール間近になると、その人は表情を歪め、フォームを崩し、バタバタと大きな身振りを取るとします。この場合、この動作を見て、私たちの多くはその人に余力がなく苦しがっていると判断し、タイムが伸びているかどうかまでは判断できないのではないでしょうか。
このように、事が外部環境にある場合、私たちは疑念を持つことなく物理現象と心理現象を結び付けているのです。それはきっと、慣れなのではないでしょうか。つまり、数多くの答え合わせをした経験を持つからでしょう。逆に言うと、事が内部環境にある場合、物理現象と心理現象を結び付けることに私たちが懐疑的になるのは慣れがないからではないかと思うのです。付け加えるならば、一つにはその経験の乏しさから、状況と状態の組み合わせにおいて、パターン化がなされていないこと、二つには身体内部の状態が目に見えないこと、それともう一つ、身体内部の機能に係る知識が常識として一般化していないことが挙げられるのではないかと思うのです。
新生姜の仕込みを夢中になってやっていると、途中で注文が入ります。注文が入ると「八寸場」と言って、懐石弁当の本体を盛り付ける持ち場が忙しくなります。ですので私は八寸場に行って盛り付けを手伝います。
この持ち場の先輩は立て続けに注文が入っている時には流れるような快活な動きで注文を次々と捌いていきますが、ピークが過ぎ、注文がまばらになってくると、時折、妙に神経質な顔をして盛り付けた八寸を何度もばらしては盛り付け直します。そうやって物事の細かい所に心を砕くのです。その盛り付けの際は三つ切りの八寸の器の前で両手をこちょこちょと小さく動かします。先輩が注文の料理を出し終わるまでは八寸場を離れられない私はその光景を繰り返し見ることになります。しかし私の目には、彼は体を大きく軽やかに動かしている時が最も輝いているように映ります。新生姜の爽やかで拡散的な香りと彼の動きを重ねていたのだと思います。
ある程度、納得がいくと、八寸場の先輩は呟くように「もういいよ」と、自分の持ち場に帰っても良いと言ってくれます。こうやって何度か八寸場で盛り付けを手伝っていると、私が新生姜の仕込みをしていることを先輩は知っていますので、その際にアレコレと自分の経験談を話してくれます。その時の先輩の表情は立て続けに入る注文を捌いている時のように、軽く明るく、どこまでも爽やかなのです。
この先輩は辛く苦しい経験を私ではなく、どこか遠くへ投げ飛ばすようにに話す人です。私の方も修業という大変なことに立ち向かう気でいますので、この話しぶりに軽さと爽やかさを感じます。また、先輩は刺激的な内容を好んで話すことが多く、聞いていると、自分の胸が重苦しさを抱えていることが意識されてきます。もちろんそれによって、私は本来持っている胸の内の苦しさを改めて意識することになるのですが、頭の方では修業というものがすぅーと軽く感じられてくるのです。
「ガッサァーってやんねん」
先輩はこのように表現して物事を楽しみ、結果として聞く者を励ますのです。色白で皮膚の薄い顔をくしゃりと綻ばせ、目で三日月のような綺麗な弧を描きます。また私もその表現で先輩の言いたいことが何となく理解できるのです。そして私は自分の持ち場に戻り再び新生姜をスライスしていきます。私の後ろの方では、天ぷらを揚げ終わった油場の先輩がよい息抜きを見付けたとばかりに、早速、
「ガッサァーって何なんですか? 」
と、喰いついています。そしていつものように暫くの間、感覚という曖昧なものを巡って甘えようとじゃれ始めるのです。大抵は次の注文が入った時に終わるか、八寸場の先輩がいい加減なところで終わらせるのですが、注文と注文との間にされる、このような会話は時に焼き場や向板の先輩たちも巻き込むまでに発展します。私は八寸場がとても忙しい持ち場だと聞いていましたので、良くこのような他愛のない会話に長々と付き合えるものだと、感心したものです。恐らく八寸場の先輩は細かなことに心を砕いた鬱屈を発散させていたのかもしれません。
自分の関心しか目に入らない私は、
「もっと、仕事に集中すればいいのに」
と、暇があれば馴れ合おうとする油場の先輩に馬鹿々々しさを憶えながら、そう辛辣に思うのです。修業とはもっと真剣で、夢中になってやるものだと思い込んでいたのです。ですので私は決して彼らの会話には加わりません。
新生姜のスライスが終わると、ひと塊ずつにして並べていたものを、今度は千切りにしていきます。仕事はとても単純です。左手で新生姜を押さえて、右手を前後に早く動かすだけです。そして、「ガッサァー」と勢い良く切っていきます。すると、新生姜の香りが瞬く間に立ち昇ってきます。瞳孔は散瞳し、心が躍動し、上半身が火照ってきます。包丁を通して伝わってくるザクザクとした振動と音が右腕と耳に心地よいリズムを響かせてきます。すると目の前に、自分の歩んだ足跡がくっきりと刻まれた光景が浮かんできます。そのくっきりとした輪郭が自分の仕事や存在を確かに証明してくれているようにさえ感じてきます。私は大きな俎板の左側で切ったひと塊分の新生姜を包丁を使って右側に滑らせていきます。その重みと滑らかさに心が増々弾みます。まるで自分が本物の板前になったかのようです。その間、先輩たちの他愛のない会話は段々と小さく聞こえ始め、耳がどこか遠くなっていく感覚を憶えます。やがて視界がぐぅーんと狭くなったかと思うと、新生姜と左手が大きく見え始めます。
私は次から次へと新生姜のひと塊を掴んでは夢中になって千切りにしていきます。途中、何度か目の前がチカチカと点滅したり、頭がくらりとふらつきます。しかし、そんな時は右手を動かしながら、ギュッと目を瞑り疲労を和らげます。体が動きを憶えている。そのような澄み切った心境になっているからでしょうか。手を切ってしまうのではないかという恐れは感じないのです。そうしていつの間にか、俎板の右側には新生姜が高い山をなしています。
新生姜を大きな笊に移し、ボールの上に重ねると、勢いよく水道の蛇口を捻ります。すると、なんと軽いのでしょうか。その時の蛇口の捻りほど容易く感じるものはありません。物足りない私は更に蛇口を捻り全開にします。蛇口がけたたましい金属音を立てて水を吐き出していきます。新生姜に当たった冷たい水が私に跳ね返ってきます。しかし、私の抱えた熱はまだまだ鎮まりそうにありません。私はボールに水が溜まると、新生姜を両手で「ガッサァー」とかき回して、笊を持ち上げます。水がザァーと音を立てて滝のように流れ落ちます。そこで漸く、私はどこか遠くの方で涼やかな風が吹いたことを感じるのです。しかしまだ、目はくわりと開き、体は火照っています。頭の中では次の仕込みの段取りが過ります。そうなると、無意識がこの熱を効率よく使おうとするのでしょうか。私はこの勢いのまま次の仕込みに取り掛かりたいと心を逸らせるのです。
何度か水を替えて洗い終えると、今度は新生姜に下味を付けてもらうために、ボールごと煮方に持っていきます。向板(造りを引く持ち場)の狭い通路を通る時に、「後ろ、通ります! 」と元気よく声を掛けて、先輩の邪魔にならないように肩を窮屈に丸めて通ります。そして煮方の職人に、「新生姜、お願いします! 」と気合の入った声掛けをします。
その時、大きなボールにどっさりと入った新生姜を、「どうだ! 」と言わんばかりの勢いで煮方の作業台に載せ、煮方の職人の顔を正視します。しかし、キャリア20年を超える恰幅の良い職人はボールに入った新生姜をひと目見て、「おっ! 」と発するのみで、目の色ひとつ変えず、眉ひとつ動かしません。
その姿が私の目に焼き付きます。しかし私はさっと身を翻し、もと来た道を戻ります。向板の後ろを通る時、再び声を掛けますが、行きしなに来た時より声に勢いがないことに否応なしに気付かされます。向板の先輩の後ろを通る時には肩が容易く丸まるのです。頭に上った血がすぅーと引いていく、血流の動きさえ感じてしまいます。そして心に寒さを憶え、細く尖がった自意識の痛々しさと勢いの衰えを知るのです。
この感覚を憶えながら、約一か月に亘って新生姜の仕込みをしていきます。その間、堂々とした煮方の職人の姿と表情が無意識に思い出され、様々な仕事をしながらあれこれと思いが逡巡します。そして最終的にこう思い至ります。
「このくらいの仕事はやっぱり平熱でできるようにならないといけないんだな」
何度もこの思いを噛み締め味わいながら、やがて、「そりゃあ、そうだ」と心底、納得します。そして、ほんの少し、自分が重みを増し、ものが良く見えるようになった気になったのでした。
2升から3升の新生姜ご飯が炊きあがり蓋を開けると、ふわぁーと一気に立ち昇る湯気と共に、新生姜の濃厚な香りに包まれます。始め、この濃厚で動きの早い香りにビックリさせられ、香りを嗅いだだけであるにも関わらず何故か疲労を感じました。しかし暫くすると、梅雨時の鬱陶しさを吹き飛ばすようなエネルギーが湧き上がってくるのです。「ガッ」と、体が衝動的に動き出すような感覚を憶えるのです。
私の理論で言うと、生姜は塩味の上位互換である辛味系です。前後の動きをもたらし、自分の中で自己の存在感が高まる機能を持っているとしています。栄養学的にも生姜には体を温める効果があるとされています。つまり血行が良くなることが、近しい概念を跨ぎ、心理的に自己の存在感が高まったように感じられるのではないかと思っているのです。ただ、これは私がそう思うことですので、皆が皆そう感じるとは思いませんが、食べ物を口にした時にどのように感じるのか、その一連の変化がどのようなリズムを刻み、その人の心理に影響を与えるのか、そこに食事においてこれまで一般化されてこなかった新しい楽しみ方があるように思っています。
食事をし骨格筋を動かし感情表現をするといった、目に見える分かり易い反応ではなく、自分の身体内部で起こる変化に着目していくことは、食事のエンタメ化のみならず健康を意識できる遊びとも言えます。健康を意識できるとは自分自身の固有の体質の理解に繋がるということです。また飽食の時代が進むにつれて私たちはより高い具体性を志向してきたように思います。私はこの身体内部の動きを捉えていくことが物事の認識により高い抽象度をもたらし、物事を多角的に見る目を養わせ、引いては偏りから調和へと導いてくれるのではないかと思っています。
さて、この夏、新生姜との出会いが皆さんにどのような物語を見せてくれるのでしょうか。心穏やかに自分と向き合う時間を作ってみてください。
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