チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』を、観て。

 『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』──開演前のアナウンスでこのタイトルが読み上げられると、劇場内にはどこかユーモラスな空気が漂いはじめる。

 物語の舞台は、どこにでもあるような平凡なコンビニ。といっても、具象的なセットはなく、張り巡らされた黒いパンチの中心に、大きく白いビニールが敷かれ、舞台奥には誰もが目にしたことがあるような──「野菜生活」や「レッドブル」、「明治ブルガリアのむヨーグルト」だとかが並んだ──平凡な商品棚の絵柄がプリントされた紗幕が吊るされているばかりの、非常に抽象的なつくりである。ここに、店長やアルバイトたち、店舗SV(スーパーバイザー)や個性的な客らが登場し、彼らの言葉と身体が交錯していくこととなるのだ。

 バッハによる『平均律クラヴィーア曲集第 1 巻』が、ときに静かに、ときに力強く場内に響き渡り、それに合わせて彼らは断続的で奇妙な動きをともなった発話(自己主張)を試みるのだが、それは主として白いビニールの上においてだけ行われる。話者がビニール上で言葉を発し、身体をくねらせている時、周囲の者たちはビニール外から傍観しているだけである。

 現実世界においてコンビニとは、観客の誰しもが知るように、多種多様な人々が入り乱れる場所だ。しかし、そこで人々によるコミュニケーションとは成立しているのだろうか。言葉、あるいは身体によって発話(=発信)される情報とは、ひどく一方的なものである。客の入退店時に合わせて発される言葉、客が店内を巡回あるいは徘徊する際に見せる身体。店員の挨拶が客にどのように届いているかは知りようがないし、同様に、客の店内での身振りが周囲にどのように伝わっているのかも知りようがない。発話(=発信)者の意図が、受け手にとって奇妙な動きに映っていようとも何らおかしくはないのだ。ここでは“コミュニケーション成立以前”の「何か」が反復されているのである。

 それが白いビニールによって形づくられた舞台上で、特定の誰かが発話(=発信)を試みる時に可視化されるのだ。話す/動く者と、聞く/見る者との関係が、である。“コミュニケーション成立以前”であるからこそ、「他者」の存在の欠如は、「自己」の想像力で補完していくほかない。そしてその「自己」の想像力には、当然ながら己自身が含まれているはずである。「他者」に対し、自己投影せざるを得ないかたちとなってしまうのだ。そういった意味でコンビニとは、「自」と「他」の関係が交錯する場だとも言えるだろう。その交錯が、「何か」の正体なのではないだろうか。先に、“コンビニとは、多種多様な人々が入り乱れる場所”と記したが、「乱れる」とだけあって、この関係性の交錯は淫靡的ですらある。

 2014年に初演された『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』を見逃してしまっているため、本作がどのようにブラッシュアップされ、“ソリッド化”したのかに触れることができないのが残念だ。基本的に発話と身体性は切り離せないが、それは受け手(見る者/聞く者)がいてこそ顕在化するのだという自明のことを、今回改めて考えさせられた。かつて鴻上尚史が自身の劇団名に冠した「第三舞台」──作品が上演される舞台(第一舞台)と客席(第二舞台)が共有する幻の舞台(第三舞台)──という言葉が、発話(=発信)者と受け手との関係が交錯するコンビニにはピタリと当てはまる気がする。それはまた、アンフォルメルな社会の縮図だともいえるのではないだろうか。

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