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書評

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#中山七里

書評 #81|復讐の協奏曲

 『復讐の協奏曲』でも、主人公の御子柴礼司は奔走する。その姿はさながら探偵のようだ。  魔の手は意外な人物へと手を伸ばす。仲間という感情的な言葉が使われることはないが、部下でもある日下部洋子のために身を削る。シリーズにおいて一定の心理的距離が存在した保護者と被保護者。その壁が壊され、距離が縮まったことによって過去の作品とは異なる趣を湛えている。それは冷血漢が見せる人間味と成長の証でもあり、作品に深みをもたらす。  本作は独立しているが、同時にシリーズを貫く一つの事件を起点

書評 #80|恩讐の鎮魂曲

 どこまでも論理的。その舌鋒も鋭利な刃物のようだ。御子柴礼司。彼に相対する組織や人々は敵を討伐するかのごとく、法廷に関連したあらゆる場所で攻勢を仕掛ける。その憤怒や憎しみを時に受け流し、歯に衣着せぬ言葉で跳ね返していく姿は実に痛快だ。  『恩讐の鎮魂曲』は中山七里の他作品と同様、作品という名の器にさまざまなテーマが含まれている。御子柴礼司本人が代弁する罪人の更生と贖罪。介護現場が抱える不条理。それらが織り成す複雑な人間模様が重厚な舞台を作り上げる。  その舞台を闊歩する御

書評 #77|ネメシスの使者

 多様な視点と価値観。換言すれば、白も描き、黒も描く。その中間に存在する罪と法の濃淡を中山七里は巧みに描く。  懲役とは。極刑とは。個人の感情も混ざり、懲罰や更生のあり方について読者を思考へと導く。被害者と加害者。そして、家族をはじめとした、その周辺にいる人々にまで罪は侵食する。一面的ではなく、多面的に罪を見つめる。  『ネメシスの使者』は作中で表現されたように「システムの隙間に爆弾を仕掛ける」ことによって制度の間隙を浮かび上がらせる。そして、世の中で最も悪辣と評された「

書評 #75|総理にされた男

 総理の物まねをする役者が総理になったら。この突飛な設定がまずは関心を引く。そして、複雑な中にも入り組んだ人間模様を描く政治の世界を簡素化し、魅力的な物語へと昇華してくれることをも期待した。中山七里の『総理にされた男』はその期待に十二分に応える作品ではないだろうか。  政治は複雑である。さらに突き詰めれば、その複雑さは理性ばかりでなく、人間と人間によって営まれる政治が往々にして不条理であるからだろう。そこに風穴を開ける真垣統一郎こと加納慎策の純粋無垢な志は痛快だ。舞台袖で演

書評 #74|護られなかった者たちへ

 社会の膿とも呼べる、歪みを『護られなかった者たちへ』は描いている。作中において核を成す貧困というテーマ。それを「臭い」という言葉を使って表現したことが強烈な印象を残した。腐敗する風景は眼に浮かぶよう。当然と言えるが、人間によって構成される社会も生き物であることを実感させられる。  膿と呼んだが、作中に登場する人物たちに善悪といった評価軸に振り分けることは極めて困難だ。言い換えれば、人間はその濃淡の中で生き、外的要素によって貫かねばならぬ正義が変わることも見せつける。「真面

書評 #73|ヒポクラテスの悔恨

 『ヒポクラテスの悔恨』はシリーズの魅力はそのままに、作品が持つ揺るぎない信念を読者に伝えている。死者の声に耳を傾けること。老若男女を問わず、本作で光が当たる人種の違いも問うことはない。新法解剖や画像診断など、新たな風は吹きつつも、解剖という名の真実を求める探求にはシンプルな目的を背景に、高貴な印象すら受ける。そこには私利私欲や生きている人間だからこそ持ち得る感情の濁流がなく、それとの対比があり、作品の高潔さに一層の磨きをかける。  多くの物事がそうであるように、信念を実践

書評 #65|ヒポクラテスの試練

 短編であった『ヒポクラテス』シリーズは長編小説へと進化した。短編小説の魅力でもある小気味良さをそのままに。  条虫であるエキノコックスが『ヒポクラテスの試練』を通じて猛威を振るう。始まりの場所を求めて、主人公の栂野真琴は海をも渡る。  真相を探る過程は解剖のそれと重なる。光崎藤次郎の類い稀なる解剖の腕。その技術は素晴らしいが、真実を求める熱意とプロフェッショナリズムを抜きにして語ることはできない。栂野真琴にもその意志が宿り、日を追うごとに増していることを感じさせる。

書評 #64|ヒポクラテスの憂鬱

 劇的な変化ではない。しかし、それは物語に大きく、前向きな影響を及ぼす。『ヒポクラテスの憂鬱』は前作の『ヒポクラテスの誓い』から確かな上積みがある。作品に強固な筋を通しているのが「コレクター」の存在だ。県下で起きる自然死や事故死に陰謀が秘められていることを示唆する存在。緊張。猜疑心。不安。その答えを求めるかのごとく、指は先のページへと伸び続ける。  結末に大きな驚きはない。しかし、短編集でありながらも、一章ごとにすべてがつながっている。 「いつもいつも有るものを見ようと

書評 #63|ヒポクラテスの誓い

 論理的であろうとすることは、物事をあるべき形に律することとも言えるのではないだろうか。それは尊い行いのように感じられる。清らかであり、険しくも長い一本の道を練り歩く求道者の姿が思い浮かぶ。  中山七里の『ヒポクラテスの誓い』はそんな情景を連想させる。寒風に当たり、身が引き締まるかのように澄んだ佇まい。真実を探るために、法医学者の光崎藤次郎が歩みを止めることはない。その一挙手一投足に無駄はなく、どこまでも美しい。活字から浮かぶ余韻は芸術的とすら感じる。  光崎は常人離れし

書評 #62|悪徳の輪舞曲

 序盤から物語の根幹を成すと思われる展開が読者の度肝を抜く。その光景は強烈な印象を残す。それはどこからどう見ても真実としか思えないからだ。真実は果たして真実なのか。中山七里の『悪徳の輪舞曲』は「想像を超えることを期待する旅」と言えるのかもしれない。  その旅の道先案内人は御子柴礼司。人を殺めた過去を持つ弁護士だ。物語の構成要素として殺人を扱うことは珍しくないが、その加害者が読者の視点に立つことに物珍しさと同時に違和感を感じる。熱い氷を食べているような不思議な感覚だ。しかし、

書評 #60|テミスの剣

 真実を救えるか。それが『テミスの剣』のテーマである。真実の追求は司法が果たすべき役割の一つではあるが、法の遵守は真実でなくとも成立し得る。その事実を通じ、法と果ては人間の不完全性が描かれる。  警察、検察、裁判官。多様な視点から冤罪事件とそれにまつわる人々を見つめる。重厚な物語ではあるが、軽やかな展開に身を任せた読者は多いのではないか。逆転に次ぐ逆転。読者もまた、清濁を併せ持った流れの中で価値観を問われる。満天ではないが、最後に差す光に希望の色が滲んだ。