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書評 #103|十角館の殺人

 結末を知り、鳥肌が立った。物語の過程とその価値が損なわれることはない。しかし、すべての記憶や印象が塗り替えられるような感覚を『十角館の殺人』のクライマックスはもたらす。計算された衝撃。緻密な設計は感嘆に値する。

書評 #102|少年と犬

 馳星周の作品を初めて読んだ。もちろん、実態はわからないが、『不夜城』に代表されるスリリングかつ現実的な作風が作者の特徴と認識していた。その雰囲気からは遠い『少年と犬』という作品名に興味を覚えて本を手に取った。  東日本大震災に被災し、飼い主を失った多聞という犬を中心とした物語。人々との出会い。多聞がそれぞれにもたらす前向きな変化。歩み続ける多聞の先に何があるのか。多様な感情と適度な余白が交わり、作品としての引力を放つ。  それもさることながら、多聞の聡明さ。献身性。人々

書評 #101|ユーチューバー

 村上龍の文体に触れた。何年ぶりだろう。最後に読んだのは『オールド・テロリスト』だった気がする。それらの表現が適しているかわからないが、挑戦的であり、野心的であり、男性的。五感が鋭利になるような感覚が忘れられない。  『ユーチューバー』は作者の化身である、矢﨑健介の女性にまつわる回想録だ。どこまでも本能的な生き方が印象に残る。「用事のない生き方」という表現も同様だ。群れず、迎合しない。その生き方には責任が伴い、周囲の反発や抵抗も想像できるが、荒波の中を突き進むような、その姿

書評 #100|夢をかなえるゾウ

 象の見た目をしたインドの神様であるガネーシャが現れ、歴史上の偉人たちが実践していた行いや言葉を主人公に授けていく。一見当たり前のように思えることも多い。しかし、その当たり前を行動に移し、それらを積み重ねることの難しさも感じてやまない。  心の底から求める。試練をも前向きに捉える。行動すること。自らを律すること。 挑戦すること。他者を敬い、援助する気持ち。成功の定義は人それぞれだが、多くの人が解釈する成功はそれらの循環によって成立していることを再認識させられる。限界はない。

書評 #99|陰翳礼讃

 陰陽の対比において、差す闇をも一体として物事を捉える。その考えが生活に投影され、独特の美観を生む。陰影を悪しきものとして扱う西洋と、その存在を前提として捉える東洋。優劣はないが、後者の思想に深みを感じた。  闇が光を生む。闇があるからこそ、光が差すというのは宇宙の根源にも通じるのではないか。悠久、雅味、花鳥風月。日本と東洋の美意識を表す、それらの言葉の意味や魅力も谷崎潤一郎の『陰影礼賛』は再発見させてくれた。大川裕弘による、物語のような写真の数々も書を引き立てる。

書評 #98|それでも前を向く

 相手を置き去りにするドリブル。突風のようなスピード感はどこまでも鋭く、宮市亮は日本サッカーに待ち受ける明るい未来の象徴だった。しかし、人々が思い描いたような輝きは現実に差すことはなかった。 「くらべる必要のないものまで、くらべてしまっていた」 アーセナルでの苦悩に触れ、心が痛んだ。重圧にいかにして向き合うべきか。心身の準備と言えばそれまでだが、サッカー界の頂点に位置する環境を生き、勝ち抜くための難しさ、過酷さが生々しく語られる。  同時に自分自身の未熟さにも触れた。

書評 #97|戦術リストランテVII 「デジタル化」したサッカーの未来

 サッカーの試合において「成功」と定義されるプレーの再現性を高めるべく、ポジショナルプレーに代表される戦術の自動化が流布されて久しい。本書の作者である西部謙司はサッカーの「デジタル化」「カーナビ化」「マニュアル化」という言葉に置き換え、消化された分かりやすい言葉を通じて概念を読者へと届ける。  デジタル化がサッカーにおける最先端であり、正解のような印象を受ける。守備から攻撃への円滑な移行を促し、その逆も同様だ。しかし、サッカーの要所であるゴール前に眼を向け、ゴールや決定機を

書評 #96|森保ストラテジー サッカー最強国撃破への長き物語

 日本代表を率いる森保一監督の手腕をつぶさに見つめる。サンフレッチェ広島の監督を務めた時代から遡り、強みと弱みを指摘。連続して使用される専門用語を追いかけるのは簡単ではない。しかし、明瞭な言語化はそれ自体に価値を感じる。「相手の戦術の裏返し」「戦略的ラッシュ」「主導的チーム戦術の欠如」などの表現は印象に残った。  特に「委任戦術」に対する評価には共感した。戦術は研究され、それを見越して先を読む力が求められる。言い換えれば奇跡は続かない。個人の成長など、得ている利益は皆無では

書評 #95|スタジアムの神と悪魔 サッカー外伝 増補改訂版

 サッカーの歴史を駆け抜けた気がする。そして、そこには感情がほとばしる。喜怒哀楽。縦横無尽に感情を湛えることができるサッカー。勝利と敗北の幅の中に極めて重厚な感情の濃淡が存在する。  サッカーは詩的でもある。官能的とも呼べるだろう。ウルグアイのモンテビデオに生まれたエドゥアルド・ガレアーノが紡ぐ言葉の数々は競技が内包する情熱的な美しさの象徴である。 「およそモラルというものについて、私はそのすべてをサッカーから学んだ」 「驚きを生み出す飽くことのない資質」 「サッカーは

書評 #94|もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚

 クロアチアという国と紅白のユニフォームを身にまとう選手たちをより身近に感じさせてくれる。延長戦やPK戦も含めた異常なまでの勝負強さに象徴される「粘り」を連想するが、それは歴史や経験から培われたものと認識させられる。 「クロアチアは小さい国かもしれないが、勇敢で闘争心があり、献身的で全力を尽くす国民なんだ」 数々の戦いを眼にし、クロアチアに抱く印象と合致する言葉に初めて出会った気がした。クロアチアを率いる、ズラトコ・ダリッチの言葉は像の輪郭を濃くする。  名のある選

書評 #93|オシムの遺産(レガシー)彼らに授けたもうひとつの言葉

 深い洞察による本質を見抜く力。イビチャ・オシムを一言で表現することはおこがましい。その視点と思考力は宇宙のような無限の広がりを帯びる。しかし、周囲の人々の言葉を通じてオシムに触れ、そんな言葉が頭に反響している。  考えること。その一つ一つに真剣に取り組むこと。サッカーに対して本気で取り組んでいたであろう、ジェフユナイテッドの選手たちはその真意を理解し、全身全霊をかける。論理的な精神論とも言うべきか。その二つが合わさって初めて、個人は本領を発揮できるのかもしれない。  本

書評 #92|ドイツサッカー文化論

 ドイツのサッカーを大局から細部まで見つめた一冊。ドイツ人のメンタリティについて繰り返し言及される。それは「大きな責任を自ら背負いたい」という願い。徹底した勝利へのこだわりが、そのように言語化されていることに納得する。  日本と比べ、ドイツにおけるサッカーの歴史は長い。しかし、その年数だけによって栄光が築かれているわけではない。体系立てられたプロサッカーとアマチュアサッカー。教育システム。主要な国際大会における敗戦を教訓とし、改革を推進する姿に合理性を重んじる国民性が垣間見

書評 #91|フットボールヴィセラルトレーニング 無意識下でのプレーを覚醒させる先鋭理論[導入編]

 フットボールにおける個人の上達。人それぞれが異なる強みや弱みを持ちながらも、それらをいかに発展させられるのか。無意識と耳にすると複雑に映り、その面も否めないが、教える側と教えられる側の双方から「上達する」ことの意味を言語化している。  教えられる側を瓶ではなく炎になぞらえている表現が印象に残る。それは一般的な仕事にも通じる。情報を詰め込むのではなく、成長や向上する意欲を燃えさせる。一方でいわゆる「楽しいこと」や「得意なこと」ばかりでは意欲が燃え続けることはない。人間は緊急

書評 #90|火星ダーク・バラード

 ディストピアと化した火星。遺伝子操作によって生み出された新人類、プログレッシブがその象徴だ。火星の開拓。人類の進化。その希求の根幹に善意はあったのか。私利私欲によって失せたのか。完全にはなれない人間。不完全な人間がシステムを作り、システムを嫌う人間が新たなシステムを作る連鎖。その構図は村上龍の「愛と幻想のファシズム」を想起させる。  システムに抗う力としての自我や暴力。恋の物語も織り交ぜながら、人と人とが交わることによって生み出される力も「超共感性」と呼ばれる特殊な能力に