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【タイ就職にいたるまで】アメリカ留学時代

◆ 大学3年生を休学してアメリカ・オレゴン州のリベラルアーツカレッジへ留学 ◆

福岡県小倉の中高一貫の女子校へ6年間通った私。経済的な支援は父から受けていたものの、母ひとり娘ひとりのふたり家族で育ちました。

父が経済的にすべてのサポートをしてくれていたので、父の意見が強く私は父が希望した中高一貫の女子校へ入学することに。

とにかく母が厳しく完璧主義の神経質なひとだったので、ひとり娘の私は全身全霊の愛情の中、自由のまったくない環境で育ちました。

中学高校は友達と放課後遊ぶこともなく、塾へ通い、家にいる間は母と一対一で反抗期など許されるはずもない環境の中、高校1年生の時に短期の交換留学でアメリカのノースキャロライナ州へ行きました。初めての海外、初めて親のいない旅行、初めて外国人との交流。ホームスティをしながら数週間英語のコースを受けるというプログラムで英語を学びアメリカの文化を学びました。

英語は大好きでかつ一番得意な教科だったので、海外派遣に選ばれ初のアメリカ、初海外に行くことができ、ホストファミリーも非常に優しく温かく迎えてくれたことからすっかりアメリカが大好きになりました。それをきっかけにいつかは海外留学、特にアメリカで勉強したい!将来は海外で仕事をしたい!という希望を持つようになりました。

本当は高校卒業後、直接アメリカの大学に行くことを希望していましたが、当時の担任の先生のアドバイスで将来日本で働く可能性が少しでもあるなら日本の大学に行って、在学中にアメリカ留学するほうがいいと思うというアドバイスを受け、東京の大学を受験することにしました。当時の先生のおかげで最大限可能性を残して希望を叶えることができたと思っています。感謝。

受験をし立教大学観光学部に入学してからとても充実した、楽しい大学生活を送っていましたが、アメリカ留学の希望は捨てず、大学時代はさらに海外で自ら出る機会を常に探していました。サークルの活動でフィリピンへ滞在したり、ベトナムへ一人旅をして一人旅にはまったり、池袋の教会で外国人の方々に日本語を教えるなどいろんなことにチャレンジしました。

そして、大学三年生を1年休学し、3セメスター留学することに。できる限り長く留学したかった私は、当時休学するために大学に支払う費用が1年の学費の50%だったので(約50万円ですね、いまは10万程度だときいていますが・・・国公立だと休学費は免除か数万円といまは留学がさらにしやすくなっていると思います)ゼミの先生に相談し、1セメスター分は大学に籍があり通っているふりをしてレポートなどでとれる単位のみ履修して、実はアメリカにいるという方法をとりました。よってアメリカ留学できた期間は1年半でした。

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留学した大学はアメリカ西海岸にある1600名ほどの少人数の大学で、立教と同じリベラルアーツの大学でした。オレゴン州やワシントン州は白人が多く、特に私が留学した大学は富裕層の家庭で育った学生が多かったため、初めてアジア人として差別を受ける場面もありました。

日本にいると経験することはない人種差別を受け、とても悲しい思いをしましたが同時に、アメリカに留学したからこそ人種差別を経験し理解ができたことは海外で働くことを希望していた大学生の私にとっては現実を身をもって知る必要な経験でした。

そして、アメリカにいて人種差別を受けた後だったからこそ、同じアジアであり、特に人懐っこいタイ人のやさしさや親切さにより感動し引かれたのだと思います。

振り返ってみると点が線になりつながります。

◆ アメリカで学んだこと ◆

アメリカにいる間は勉強についていくことがとにかく必死で、田舎にある大学だったためキャンパスの周りにはウォールマートくらいしかなく、歩いて繁華街に出て街で唯一の日本食やタイ料理レストランでご飯を食べたり、アメリカ人の先輩のシェアハウスで集まってビールを飲むくらいが唯一の楽しみで華やかなカレッジライフとは程遠い世界でしたが、日本から遠く離れたアメリカの小さな街で外国人としてネイティブスピーカーの学生の中に混じって勉強をした経験はいろんな意味でその後の私の人生に大きな影響を与えました。

私が主にアメリカにいる間に強く感じ学んだことは以下の2つの点かと思います。

① 自立をして自由に選択肢を持つことの大切さ

度胸と根拠のない自信、何を始めるにも大事な勇気のようなもの、これはアメリカに行って身に着けた感覚かなと思います。

子供の時から女性として経済的にも能力的にも自立をすることの大切さを母から刷り込まれていた私。アメリカに行き、グレイハウンドバスを使って旅行したり、アメリカ人の中一人日本人の少人数のクラスでスピーチをしたり、日本語クラスのチューターのボランティアを自分でかって出たり、積極的に行動して自分が行動することで道が開けできることが増え、助けてくれる人が現れてさらに成長できる機会を与えてもらう喜びを感じる場面がたくさんありました。外国で親元を離れ、友達を離れて生活をする中で自分で選択をし決断をして道を切り開いていくことの大切さ、どこにいっても素直に吸収し、愛される人であることの大切さを強く感じました。

どこにいってもなんとかなる、選択をした先に努力を重ね続ければ道は切り開けるからとにかくやってみようと勇気を持てるようになりました。

② 世の中は不平等で理不尽だけど、自分の弱みを強みに変えることができること

人種や性別、いまはオープンになり始めていますがジェンダーについて。進んでいると思われているアメリカでも実際は当時とても閉鎖的だったように感じます。特に人種については日本では感じることがない差別を感じることもあり、キャンパスを見回しても各人種同士でグループが分かれている光景が通常でアジア人の私はどこかいつも緊張し肩身の狭い気持ちを抱えていました。

この小さなひとつの大学という世界でも、外を見回してもすべてが平等ということはありません。

でも、その不平等で理不尽な世界の中で腐らずに自分の立場から気付けることを大切にして、その気づきから一見弱点と思われることも、ほかの人とのかかわりの中で強みに変えていけるように働きかけることの大切さを感じていました。

差別的な言動を白人の女性から受けたとき、ショックもありましたがその時に感じた悲しい感情がのちのちタイでタイ人と仕事をするときや欧米人の上司と仕事をする上で活きていると思います。

一見ネガティブに見えることでも経験をして初めて理解できることを自分の中で糧にして、次に人と接するときに相手を尊重し大切にできる自分につながればさらに強くなれると思います。

アメリカに留学していなければタイと日本の違いに感動したり驚いたりショックを受ける感覚も変わっていたと思うし、すべてが今につながっています。


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タイで現地採用として仕事をすること、女性として海外でキャリアを積むこと、タイにいる間に恋愛も結婚も離婚もしたので特に女性には共感してもらえたり参考にしてもらえることがあると思います!

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