ことばが溶けている

note公式から少し前に「君のことばに救われた」というお題の企画が出て、書かれたものをいろいろ読んで、自分でも考えてみたのだが。

書けなかった。これというものを。

浮かばないまま時間が過ぎた。
いくらなんでも、出てこなさすぎである。

そんなはずはない、と思った。絶対、確実に、どこかでことばに救われているはずなのだ。でも、なんか書けない。取り出せない。
おかしい。

それで、何も思い浮かばないのはなぜなのだろうと、最近ずっと考えていた。

じゃあ逆に思い出せるのは何か。
それは、自分が嫌だなと思ったことだったりする。
言われて嫌だったことば、聞くに耐えないことばは、くっきりとした輪郭を保ったまま、異物として残っている。いくらでも出てくる。棘のような、矢のような、ナイフのような。よく思い出せる。それどころか、耳の奥で、頼んでもいないのに時たまリフレインする。
それらはまだ刺さったままで手当されていない傷。忌々しくもある。そんなのばかり。
ああ、やめやめ。思い出されてしょうがないから、一旦蓋をする。

それから、救われるってどんなことをいうのかを考えていた。
救われるって、一回の話じゃないという気がする。これ、この、と、一回でカウントされるものでなくて、なんというか、刺された傷が手当されて、止血されて、傷口を縫われて、皮膚の再生機能によって薄皮が張って、傷口の跡が薄くなって、っていうような、その全部の過程なんじゃないかと思う。
そうすると、救われていく過程で、私は、ことばを、止血ガーゼのように、縫い糸のように、消毒液や塗り薬のように、たぶん受け止めている。だから、これがこの傷を治した、救った、という等価の一対一の対応関係を想起することができない。救ったものはたくさんあって、縫われた箇所は、たくさんあって、塗り拡げた薬は、傷のないところにも、塗って浸透しているから。

救いのことばは、何度も何度も私を救い、そのうちに私に溶け込んでしまって、一体化してしまって、元の形をとどめていないのではないかと思う。そのせいで、もうきれいな形で取り出せないのではないか。複雑に溶けて混ざりあったかなしみや苦しみが、ちょっとずつ薄められていくような感じ。あれもこれもがまぜこぜになって、ようやく私を保っている感じ。

つまりは、書けなかったのは、思い出せないとか、忘れてるっていうより、同化しているせいなんだ。

私はそのように結論づけた。

私が自分の中に受け入れたものは、かたちをなくしていく気がする。
ことばが、溶けていく。
溶けている。
私の中に。私の周りに。
L.C.L.みたいに。

だから、書けなくてもしょうがないんだと思って、考えるのをやめた。

私は数々の音楽や、アート、文学、ぬくもり、やさしさ、きれいなこころ、うつくしい景色、いきもの、果てしない過去の蓄積、そんな、人と、人でないもの、人のつくったもの、人の守ったものに、救われてきた。
即効性のあるものばかりじゃないし、思いがけない効能があったものもあったろう。
何が何を救ったかなんてもうわからない、でも今なんとか生きているのは、いろいろ溶かしていったからだ。

このさきも、溶かしていったものたちが、私を癒やしていくんだろう。
今好きで取り込んでいることばたちも、溶けて溶けて秘伝の薬になっていくんだろう。
だから心の赴くままになんでも摂取するのがいいんだ。きっと。
だから好きだったものたちを、たまにもう一度振り返って塗り直すといいんだ。きっと。

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