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ヒカゲが愛した三人の魔女

 ヒカゲと呼ばれる詩人がいた。
 行きつけのカフェに風景の様にあり、ひょろっとしていて、青白く、何処か不気味で、不健康そうな男だ。果たして、現代で詩人なるものが成立するのか、或いは彼が本当に詩人であるのか、僕には今一判らない所があった。だが同時に、心惹かれるものもあった、燃え尽きそうな横顔で何かを書き散らしている底に、湧き上がる水源の様なものを感じたからかも知れない。
 何かのきっかけで、会話が始まり、何かのきっかけで話が弾んだ。前後は覚えていない。
 カウンターに僕等は並び、小さい声で話をしていた。
 「君のルーツはなんだい?」彼は僕に語り掛けた。
 「何だろう?好奇心ですかね」僕は云った。
 「好奇心、それは興味深いね。でも、私の場合は違った。女性達だった」
 「女性?母性とかですか?」僕は多少照れて云った。
 「いや、恋人、と云うか私が一方的に愛した女性達、彼女等への焦げる様な思いだ」
 「愛がルーツ、詩人の割に有り触れていませんか?」
 「そうかも知れない、そうじゃないのかも知れない、だから、聞いてくれ」彼は云った。
 そして、ヒカゲは彼の恋人達に付いて語り始めた。
   ×
 私が好きな女性とは何だろう?
 これは所詮エロティックな傾向に付いての自問だろうか?或いはルーツに付いての疑問だろうか?嗜好だろうか、私情だろうか、イオンだろうか?虚しい議論だろうか?まあ、いろんなものがある。不毛だろうが苦悩だろうが、私から彼女等を払拭する事は出来ない。
 例えば、体が大きな女性の事を好きになったとして、体が大きな女性をすべて好きだと云う事は出来るだろうか?つまり、好きな人の話題とはそれだけ言葉にするのが難しい。一人の人の魅力と云うのは云い表し難いものだ。
細い人が好きとか、とろい人が好きとか、グラマラスな人が好きとか、下らない事を口だけで云う事は出来るだろう。だが、彼女等と接した時、その様な一般化出来るフォルムを、私は認める事が出来なかった。
  
 或る時、私は大変に頭の良い女性を好きになった。学業優秀で機転が利き、ユーモアのある人だ。だが、同程度の知識やユーモアを持っている他の人に、私はちっとも惹かれなかった。恐らく、その人の知能と云うのは、私がその人の魅力を語る上で言葉にしやすいものだったのだろう。
 その人の身体的美しさと云うのは、より表現しづらい。顔はキュートであるが、女優やモデルの様なそれでは無い。瞳はぱっちりしているし、鼻もきれいだし、と云う事は出来るが、映像に収まるとどうなのか疑問がある。それは或る種のメディアや比較の中に在ると、見えづらくなる美しさだった。

 二人で居る時、彼女の理知が光る事は少なかった。それはプライベートで光り輝く様な種類では無かった。だが、私は彼女と一緒に居る時、自分の無知さを思い知った。彼女を介して現れる何もかもが、私の不毛な畑に水を注ぎ、あらゆる好奇心をノックした。それは静かな、とても、厳粛で怜悧なときめきだった。また、彼女も私の無知を責めたりはしなかった。
 「胸がもう少し大きかったら」と彼女は何時も云っていた、だが舟はもう既にオールを漕いでいて、彼女曰く、小さな胸が、私の水面を掻き揚げていた。
 「最近、体毛が気になるんだよね」と云って撫でる足に、ふんわりと在る細胞が引っ切り無しに鳴り、弾んで、感傷を内包した反応が倍増して響いていた。
 彼女が持つ身体表現、仕草と息遣いは彼女の知識より豊富だ。
 お酒を飲み甘え、不意に私の衣類に手を入れる、様々な交わり、様々な悪巧みを知っていた。

 彼女は自らが追及すべき専門分野を持っていた。然し、何より私を打ったのは文に付いての造詣だろう。彼女は様々な本を好み、自らも文を書いていた。
 然し、彼女は自らの作と認めた物語を、ついに、私に見せてくれなかった。
 「不出来だから」そう云うだけだ。

 私が読んだ彼女の文は、詩、散文、エッセイ、手紙等だ。
 それは私をワクワクさせ、弛緩させ、躍らせ、遂に、自ら書かねば気が晴れない程に開拓した。そして、私が書いた詩を、彼女は冷静に分析し、助言をくれた。

 彼女に弱点があっただろうか?あったのかも知れない、だが、今は上手く思い出せない。
 時々、物憂げに遠くを見ている彼女に対して、私は申し訳ない感情を抱いていた。

 自立心が強い獣がそうである様に、彼女は、或る日、不意に私の元から去った。
   ×
 或る時、とても髪の美しい人に恋した。
 長い髪の毛と白い四肢を持ち、美しい乳房を持っていた。よく見ると目の横に傷の様なものがあり、鋭い気配の割に目鼻立ちはぼんやりとしている。ぎくしゃくした感じは愛らしいのであるが、結局その美しさに付いて、直接触れる事は無かった、それは見える地雷の様に私と彼女の合間に横たわり続けたのだ。
 その人は自尊心が強く、勝ち気で、よく腹を立てる人で、彼女と深い中になってから知るのだが、彼女には既に恋人らしき人が居て、その人への愛は確かであるらしかった。
 然し、彼女は気紛れに私を呼び出して寝た。

 私は彼女が或る種のモラルに合わせられない事を認識していたが、一方でそれは彼女の魅力である様に思えた。
 彼女は度々恋人の事を私に語って知らせた。彼女が語る恋人、愛する人は、彼女が語る限り有能で愛すべき人で、同時に憎らしいものでもあった。私の妬みからと云うより、彼女は時に恋人の悪い所を強調して話したからだ。
 それは時に男の性的嗜好や前日の性交の様子や素行の悪さだった。彼女は前日にどの様な体位で終わったのかを語り、その続きらしきものを私にやらせた。私の中に憤りの炎を灯し、それを味わい弄んでいるかにも見えた。
だが、彼女によって語られる恋人は何処かしら魅力的たたずまいを持っていた。

 彼女は何より絵画の人であった。伝統的な作風のもの、漫画の様にディフォルメされたもの、抽象画、現代アート、あらゆる美術的手段で表現する人だった。だが、其等様々な表現手段の割に、彼女の主題は一貫していた。
それは、愛する私、と云うものだ。
 それは誰かを愛している彼女であり、また、彼女自身への愛にも見えた。
彼女が描くペン画は、それがたとえ何も描いていないものであれ、空間を挑発し、感覚を過敏にさせ、意欲や躍動を生むものだった。私はそれまで、ただの線で感動した事が無かった。
 その線は何よりも優雅に見えた。

 彼女は取り立ててセックスが好きと云う事でもなかった。寧ろ、時々、見せる素振りには苦痛らしきものも在り、彼女自身に快楽は無い様に見えた。だから、何故、私と関係を持つのか、私には判らなかった。

 「流れでしょ。それに君が私を好きだから」彼女は云った。
 私は彼女の事が好きであるらしかった。そして、その様に云い放つ彼女を、確かに私は愛していた。
 彼女の長い髪が白い四肢に絡まり、もつれ、淡く散る様子は、演じていると知らされても揺さぶられるものがあった。

 彼女は或る日、意中の人とは違う人と一緒になり、もう二度と私を呼ばなくなった。
 だが、彼女によって語られる誰かは、今も、憎らしくも愛らしい人であるのだろう。
  ×
 或る時、取り立てて特徴の無い人に恋をした。言葉に出して云える特徴が無く、どちらかと云うと受け身の恋だった。気の進まない相手と、離れず近付かずと云う間柄が続き、或る日、急に、彼女の部屋に誘われた。
 妙な縁と云うものは何処にでもある。確か、彼女が私の作を読み、それに付いて語り、酒を飲み合って誘われたのだ。今にして思うと、その前後と云うのは作り話の様に虚しく見える。
 彼女の部屋に這入って驚いた。二人きりの空間の彼女は特徴の無い人ではなかったからだ。
 彼女は私の欲望が枯れるまで刈り尽くし、眠りを忘れる程狂乱の酩酊を与え、目覚めを忘れる程の深い眠りへ導いた。その空間に在る彼女は、好きな所に好きなように這入る事が出来、好きなものを包む事が出来た。潔く、爽やかな薫りを放つと同時に、生々しく塩辛い匂いを放つ事が出来た。ソリッドで在りながらリキッドなものに変身した。私を高揚させたかと思うと直ぐに幻滅させた。燃える様な冷たさの中に、降り頻る情炎を撒き散らした。

 然し、部屋から出ると、彼女は再び取り立てて特徴の無い人に姿を変えた。
 「どうしてあなたは二人きりの時だけ、素敵になるのですか?」私は尋ねた。
 「秘密です」彼女はぼそりと云った。

 彼女は、また、優れたジャズピアニストだった。深い中になった後の或る日、私は彼女のライヴに誘われ、その姿を目の当たりにした。
 其処にあったのは普段の、取り立てて特徴の無い彼女でも、部屋での個人的魅力を放つ彼女でも無く、場を祭典に変える魔法使いであった。
 それは公に出来るギリギリの官能さであり、即興は不安と驚きと発見と閃きが混在していて、見事な着地を見せた。それは或る種の格闘技や、祝祭における残忍な暴力すら思わせる、経験とスキルが詰まったもので、周囲は熱狂していた。
 「どうして、ピアニストで在る事を教えてくれなかったのですか?」私は尋ねた。
 「秘密にした方が、気持ち良いからです」彼女は云った。
   ×
 「彼女等は魔女なのだろうか?女神なのだろうか?テレビや映画に出て来る人々とはずいぶんと違って見える。だが、彼女達と接した時、私は其処に、えもいわれぬものを覚えた、性的な刺激だけではない、インスピレーションがあったのだ、その滑らかな魂の肌触りを私は詠いたいと感じた。
 私は彼女達から愛の一部を受け取ったのだろう、だが、愛だけが、恋だけが彼女達だっただろうか?
 寧ろ、恋人の様に在る私は、ついで、であり、彼女達の背景であり、エキストラで在ったのではないかと思える。彼女達は自ら、自らが夢中になり、他人に認められるフィールドを持ち、土地を持ち、其処でこそ輝くアーティストであった。
 そして、私はその彼女達の輝きに魅せられ、掻き乱され、駆り立てられた、彼女達を詠う事でしか存在出来ない、影の様なものなのだ」
 僕は何処かの劇に登場する三人の魔女を思った。然し、ファムファタルとして現れる女性像の多くは、流れ去る切り花の様なものだ。だが、この男が云う三人の女はこの男を成したが、恐らく、彼女達の日常では完全に独立した人間なのだろう。

 ヒカゲは彼女等に愛されたと云う、だが、ヒカゲは与えられたものに見合ったものを彼女等に差し出せたのだろうか?口に出さない迄も僕は疑問に思った。

 「三人もの女性から愛されれば、普通はもう少し幸福そうに見えると思うのですが」僕は云った。
 「私が不幸に見えるか?確かに、燃え尽きているのかも知れない、だが、彼女達の仕草や息吹を、私は未だに捉えていない」
 ああ、確かに、この男は幸福かも知れない、と僕は思った。もしも三人の魔女がいなかったら、この男はもっと早くに燃え尽きていただろう。
 そこまで聞いて三人目の女性との顛末が無い事に僕は気付いた。
 「三人目の、秘密のピアニストとはどうなったのですか?」僕は尋ねた。
 「勿論、秘密だよ」彼は冷笑して云った。

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