ローズテライ、502号室〈2〉〈feat.こんにちは世界〉
序文、EP1→https://note.com/yusetsu_matsuo/m/m0b3b83e0dd9a
〈俺〉と自らを呼ぶ霊廟の外側で私は、ジャンマリとシャルロットの事を思い出しながら目覚めた。私が目覚めた部屋はローズ・テライの一室よりずっと狭い日本の独身者用のアパートだ。私は反射的にカーテンを開け、其処に自分の部屋の窓を認めた。光はプリズム、美しさとは決して先見性がない、何故なら、美しさに出会うまで、何が美しいのかを知る事が出来ないからだ。窓から見える諸々の微動は、丸で、見た事もない冷たさで、其処に叙情は見付けられない。だが美しいのだ。群がるのは林だ。それも、都市と樹木が美しく混在している様なものではなく、固められて植えられている樹木達だ。新宿御苑の側面にあるこの部屋からは緑が沢山見れる。一方で、その鬱蒼とした様子から出てくる答えはない。私は思わず窓を開けた、窓を開けると冷たい風が舞い込んできた。季節は冬だ。視界で砕けながら微動していた美しさは去っていた。
ローズ・テライ502号室と云う言葉を私は鮮明に記憶しているのだが、その出典が何処からなのか判らない。第一、私はフランスに詳しくもなく、フランスに行った事もないのだ。台湾と韓国に、其々一度だけ旅行に行った。それも現地の食べ物を食べられるだけ食べる胃袋の旅行だった。
だが、私の中のローズ・テライ502号室は明瞭に内側にあり、ジャンマリとシャルロットと云う不器用な住人と、今は亡き哲学者の記憶を宿している。ジャンマリの故郷の風景、シャルロットの初恋、そんなおぼろな心象が一瞬を長い幻想に変えて行く。《女は閉じ込められて、半ばノイローゼ、初恋は雨の日、水面には仄暗いパリの明かりが四散した窓がある》
だが、私は夢想に浸っている暇を有していなかった。鏡に向かい、メイクを施し、酷い寝癖を整え、慌てて衣類を身に付け、質素な朝食を食べて、出勤をしなければならなかった。《女である事は労苦だ》窓は云った。《君は自らの挙動を俯瞰して感じる。鏡に向かって見せる作り笑顔ですら、こうして俺の声を介して感じるのだ。同時に女が小説を書く時、認識の事実性を如何に書くのか悩むのが常だろう》
丸で曲芸でもやっている気分で、朝のルーティンをこなし、近場の駅に滑り込むと私は一息着いた。
《俺はモノとして御前を写し出し、その中に閉じ込める。丸で額装が作品を定義する様に、常識が御前を責め立て尊厳を与える様に、視線が御前を緊張させる様に、俺は、御前として御前を見詰めている》私の影は囁いている。
私はジャンマリの様に夢想家ではない、同時に目的も持っていない。私は経験的に大きな目標を持たない事にしている。生きる事は無目的な幻想劇なのだ。物語は虚構であるが、その虚構のリアリティーラインを事実性に近付ける事は出来る。事実をありのまま捉える事は難しいが、事実に縋り付く事は出来る。故に、目的等成立する筈もない。
「俺は現代のゴッホだ」何とも滑稽なセリフだ。そもそも、ゴッホ自身が生きている間に称賛を受けなかった悲惨な画家だ。それを反復して何が面白いのだろう。次に、ゴッホ程の画才と云うものが早々にあるのだろうか?私はローズ・テライ502号室の窓に過ぎないが、彼が描くものに共感を覚えなかった。シャルロットが云う様に、彼は最初から転倒していて、転倒の最中に転倒して、繰り返される転倒に気付けないと云う転倒を重ねていたのかも知れない。
一方、シャルロットはジャンマリの転倒が気に入らなかったのだろうか?彼女が腹を立てたのは、自らが、自らの転倒を認識出来無い程の酩酊から覚めた事では無いのか?《窓の内側は寂しい。外出に許可が必要で、それを心底妥当だと自らが思わなければならない。あらゆる行動に理由を与えている内に、半ばノイローゼになる。女達は心底子供を愛していて、子供は状況を認識出来ない》
二人は言葉の上では対立しているが、実際は、互いに言葉で欲求を捉え切れていない。ジャンマリは事実が如何なる具合であっても〈自分がゴッホだ〉と云う誇大妄想に浸っていたいだけであり、シャルロットは自らが酩酊するのに充分な幻想的アルコールを毎日飲みたいだけなのだ。
満員電車で奇妙なポーズを取りながら自分の夢の中の住人にどうこう述べている私もタイガイだが、世の男女のすれ違いと云うのは私には判らなかった。《御前は山奥で育った。樹々が野蛮で、澄んだ空気は濃く甘い。女である事を思い知らせる野蛮な男達と、それを遮る窓がある。美しさに先見性はない。俺は美しさを予感する事が出来なかった》
ドアが開き、私は地下鉄の人の流れを下って行く、私の影を追い駆ける窓が私の事をどう思っているのか気になる所だが、窓が目の当たりにしている事実性は一応、均等な速さで私から遠ざかって行った。
花屋と云うと何処となくロマンティックに思えるが、其処にあるのは肉体労働と能率化だけだ。朝、仕入れに行き、市場で花材を選ぶ。《美しさに先見性はない》自分の好みや、店のコンセプト、花の出来、価格帯、其処から打算的に利益を逆算する。好きな花を選んで予算がずれるのはあらゆる意味で惨めだ。花屋に勤める為に苦手な車の運転免許を取得し、機能性だけで可愛らさのないバンに載る。花材を運んで水揚げをして、受注した注文を再確認する。クレームはつきものだ。だが、冬場は花にとって良い季節だ。気温が低いと花持ちがいい。《キーパーのストッカーガラスに俺は御前を写す。早朝からの労働で毛穴が気になる所だが、ガラスの向こうの植物は健やかだ》私は水を飲んだ。
昼休み、SNSをチェックする。食べ物は胃袋にゆっくりと運んで行く。《冬の都会は冷徹で色を失っていて、丸で愛情に飢えた子供の様だ》食べなければ私の体は直ぐに動かなくなる。冬の冷たい常温の水は、私の指から体温を奪い、荒れた指先から体の真の方の熱が溶け出して行く。これは比喩ではなく事実だ。《冷たい》と云う感覚は、最初だけで慣れて行くが、奪われて行く熱は夕方に強烈な疲労になる。《そして、それは段々と拭えなくなる呪いに似ている》私は寒くても野外で食事がとれる小さな公園に行った、そして、〈ヌード、スケッチ、裸体〉等とキーワードを入れて探ってみた。すると或る女性が目に這入った。ヌードモデルだ。彼女は自ら撮ったポートレートを展示していた。妙に意識にこびり付くその肌は、少し痩せ過ぎていて、けれど清潔で美しく、力強く、凛々しく、媚びていなかった。その展示を行なっているギャラリーは都合が良い事に帰宅途中に立ち寄っても問題がなさそうだった。《丸で、水面の向こうにある水性生物の様に女達はリラックスして移ろいでいた。窓、水面、水分、裸、花、女、俺と云う遮蔽物は様々な姿で彩になっていた》
シャルロットが云っていた写真家の名前は、マリアンヌだっただろうか?私は建物の一部として、住人の会話の中に登場した人間の展覧会に行こうとしているのだろうか?きっとジャンマリは行かないだろう。ジャンマリは写真を軽蔑している。シャルロットは行くのだろうか?彼女は自分が如何に写るかを気にしているのかも知れない、だとしたら行かないだろう。窓である私はマリアンヌの展覧会には行けない。私の思考は綺麗に閉じられているのだ。
ならば、私はその外側で写真を見なければならない。
疫病の噂とインフルエンザへの恐怖心と有象無象が飛び交う表参道は、何時も通り混雑していた。正しい知識と間違った知識、それら無知蒙昧で頭を傾けて見ているとこの世の事実性と云うものが良く判らなくなって来る。人々はマスクを付けたり、付けなかったりしたが概ね、マスクをしていた。私は薬局に行ったのであるが売り切れていて、マスクを付けていなかった。私は私の顔の申し訳無さと、マスクをしていない申し訳なさでやや委縮していた。
とぼとぼと青山通りを下り、スマホで確かめながらギャラリーを見付けて、それに這入ると其処で奇妙な既視感を覚えた。ギャラリーはアパートメントの一室を改装したものであったのだが、立派で風格のある一つの窓が、部屋の中央にあったのだ。
その作家は自らがヌードモデルでありながら、女性のヌード写真を撮影していた。彼女に撮影されている女達は、裸でありながら力強く、自らの内なる愛で自らを包んでいる様であった。転倒としての願望の中で転倒し、その転倒の気付きに転倒するのとは真逆に、女達は自らの美しさを自らの為にアップデートして、自ら達に見せているのだ。乳房も、局部も、陰毛も、それを陵辱して搾取し、性的なオブジェクトに固定する何者かからの視線から自由であった。《それは俺が予感していた美しさとは真逆だった。美しさは先見性がないのだ》そして、総体としての彼女達は、小さな肉体を通して、美しさを表現していた。恐らく、彼女達の個体性にはその様なエネルギーが含まれているのだろう。誰にでも含まれていながら、それを発見し、一瞬を捉えるのは作家性だ。この作家が女の美しさを再発見し、宝に昇華したのだ。
ジャンマリ、御前の考えは間違っていたよ、と私は思わず考えた。
芸術はエゴかも知れない。でも、ジャンマリ、〈俺のシャルロット〉なんてモノは御前には描けない、彼女は、彼女を発見してくれない御前に対して、泣いていたのだから。ジャンマリ、御前は自力でそれを発見出来ないと云う意味で、ゴッホでも芸術家でもない。御前のエゴは、芸術家のエゴではなかったのだ。
《モノである事は労苦だ。俺は窓として御前を閉じ込めているが、俺は御前を閉じ込めたいのではない》
飾られている写真を覆うガラスに、私の丸い瞳が写った。裸体の上に浮かんだ小さなクラゲは、そのサラサラの上を少し泳いで、次々と水槽の中を移動して行った…
その日、眠る時、私は久し振りに祈った。もう一度ローズ・テライ502号室の窓として眠れますように、と。
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