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失われた余白

物語の余白というものがあります。
例えば、大袈裟かもしれないですが、何か成し遂げたいことがある、といい張れる何か。無根拠な自信や、やる気、負けん気、そういうものは可能性という余白であり、予感です。

無限の可能性がある、と人は無根拠にいいます。それは如何なるものでしょう?

社会にいて自分が何らかの物語の主人公であり、それは今なお進んでいると感じられること、これも余白があるという状態です。

それを人は尊厳と云ったり、自尊心と云ったり、自意識と云うのかもしれません。正しくは、尊厳と自尊心と自意識は異なりますが、それを支えるものは共通していると思います。つまり、それが物語の余白なのだと思います。

ですが、私の物語の余白は失われつつあります。と云うより、余白というものは一般に消耗するものだからです。そして、現代と云うのは「余白の消耗期」でもあるのです。

それは共有できる物語が増えることで起こりました。構造的な共通点が増えることで私達は結末を事前に察知できるようになりました。自分の余白の結末を事前に知ること、これは実に、『物語の構造的な問題』と云えるでしょう。

それは自分の可能性や、社会的な活動の限界と連動しています。

エンパワーメントというものが上部だけを滑るとしたら、このメタ的な構造上では寧ろ落ち込ませることしかしていない、という点でしょう。

私はこの失われた余白について、書かねばならないと感じています。梯子を外され、主人公から下ろされてから、それからの方が私達にとっては重要だからです。

そして、消耗した余白というものが本当に取り戻せないものなのか確かめなければなりません。

一方で、これは私の風景の問題でもあります。

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