二十歳の君へ・中間報告
・・・・・
これからも、恐れることなくアウトプットして行けると良いな、と願っています。
私も、このところ、温めているものをアウトプットしてみたいので、長い昔話ですが、ご容赦下さい。
四半世紀前のことに思い当たり、大発見をしました。
26年前、夢前の両親の家に転がり込んで、7週間の独接心をしたことがあります。
その終わり頃、右股関節が亜脱臼のようになって、とても痛かったのです。
歩くと脂汗が出て来るような状態でした。
ところが、何も心に障るものは無く、「苦」は存在していなかったのです。
後になってからだと思うのですが、「犬と同じだな」と思いました。
犬だって足を怪我すれば足を引きずったりして歩いています
しかし、そこには、「苦は存在していない」、ということを実証したのです。
禅の修行の方法論に公案というものがあります。
その一番、有名なものに「無字の公案」があります。
狗子というのは、犬のことです。
犬にも仏性が有りますか?という質問に、趙州が「無」と応えたというものです。
この公案の前提には「悉有仏性」というお経の文句があります。
存在全てに悉く仏性がある、という教えです。
では、ナゼ、この僧は、犬に仏性がありますか、などという質問を思い付いたのだろう。
それは、この僧も「犬になった」ことがあるのだと思うのです。
犬になってみると、そこには「仏性」なんていうものは、なんにも無いじゃないか、と確信したのです。
そして、そのことを師匠に確かめようとしたのです。
26年前のことを思い出した時に、この僧のことを深く理解出来ました。
そして、パタパタッとオセロのように理解が反転し、ジグソーパズルのようにピタッと明瞭にはまったのです。
こんな歌があります。
「隔て」が「苦」の根源だというのです。
釈尊は、苦の解決のために出家し、修行を始められたのです。
そして、苦の根源を追究して十二縁起というものに行き着いたわけです。
それは、「苦」の根源は「無明」だとするものです。
おそらく、心を追究して、その起こるところを特定しようとしたけれど、よく分からなくて「無明」と名付けたのではないかと思います。
釈尊から12代目の馬鳴が書いたとされる『大乗起信論』には、「忽然念起を無明という」と注釈されているそうです。
忽然として生じる「念」が「無明」だというのです。
つまり、苦の根源は、無明であり、それは念であり、それが「隔て」なのです。
「我思う故に我あり」は、思考が自我そのものであることを示しています。
「私」とは、思考そのものなのです。
そして、思考を成立させているものは、言語です。
念もまた言語によって生成されているわけです。
言語無くして、「私」も「人間」も存在し得ず、文化文明もあり得ないのです。
言語は、人間にとって空気のような存在です。
それ無くして存在し得ないのに、そのことをほとんど意識することは無いわけです。
時間、空間、過去、未来、是非善悪等、一切のあらゆる「概念」は、全て言語によって構築されたものです。
ここで、少林窟の教えていることが活きて来ます。
しかも、逆立ちしたものとして。
少林窟では、「今」をはっきりさせることを着眼として重視しています。
この「今」とは、言語、言葉を突破したところのものを指しています。
私たちは、言葉の海の中で生きているので、「その外に出る」というのは、衝撃的な出来事となります。
逆に言うと、そういう衝撃を伴わないと、言葉の外に出られないのです。
しかし、「それ」は、常に、既に、今ここに在ります。
なんら特別なものでも、驚異的なものでもありません。
私たち人間は、「それ」に言語というフィルターをかけて、「隔て」を作り、言語によって構築された仮想世界を脳内に創り上げているのです。
人間は平行宇宙を生きている、とも言えるのです。
人間の頭の中は、言葉で満ちています。
言葉によって構築された世界の中に生きているのです。
しかも、制御されていません。
自分は自分をコントロールしていると思っているかも知れませんが、ほぼ無政府状態なのです。
それは、坐禅をしてみるとすぐに判明します。
何もする必要なく、只、坐っていれば良いだけの状態にするのです。
只坐っている、というのも、取り付く島がなく、最初は難しいので、少林窟では、「只一息だけをしなさい」と指示しています。
すると、頭の中の思考を止めることは極度に困難であることを思い知らされるはずです。
止めることも出来ないものはコントロールすることも出来ているはずがないのです。
少林窟は、そこを徹底的に追究するのです。
雑念を切る、という表現を使いますけど、
そうやって、言葉から離れる努力を続けて行くと、
言葉によって構築されている世界から抜け出す瞬間にたどり着くのです。
それを三昧と言います。
少林窟では、言葉を離れた「それそのもの」を「今」と呼んでいます。
「それそのもの」が確かに言葉を離れたものとして「それ」だということの自覚が大切なのです。
そこが修行の取っ掛かりになります。
しかし、少林窟は、言葉を離れた「その事」それ自体の重大性を見過ごして、それを手段であるかのように思ってしまっているのです。
そして、その「今」を「練って」行くことによって、悟りとか見性というものに到達出来る、と信じているわけです。
それが修行だと思っているわけです。
信仰です。
しかも、悟りとか見性の更に先に大悟というものがある、というのです。
先人がそう「言っている」から、そのように信じ込み、思い込んでいるわけですが、
それは「言葉」の範囲の話です。
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」(『臨済録』)であるはずなのに、祭り上げてしまっているのです。
言語を突破した「それ」が「彼岸」なのです。
正に「言葉の彼岸」です。
彼岸は、遠い世界の話ではなくて、今ここに、常に、既に、在るものです。
般若心経に、「照見五蘊皆空。度一切苦厄」とあります。
この「度」は、彼岸へ「渡る」という意味です。
「一切の苦厄」を渡って、超えて行くということです。
これこそ、釈尊が求めていたものです。
これが、仏教の結論です。
「犬と同じ」になった時、言葉を離れていたわけです。
「苦」というものも一切の概念と同じように、言語によって生成されているのです。
つまり、「言葉の彼岸」である「今」には、「苦」は存在していないのです。
「犬と同じ」になったところが、釈尊の到達点です。
釈尊も「犬と同じ」になっただけです。
話はそれだけのことで、簡単です。
しかし、おそらく、それだけでは「宗教」として成立しないのです。
だから、「人格の陶冶」というような要素を取り入れるために、四弘誓願などというものを発明し、
ゴールポストを移動させて、菩提心、菩提心と策励して修行を引き延ばそうとするわけです。
先人は、意図的にそういうことをやったのかも知れませんが、あるいは、本気で勘違いしていたのかも知れません。
私たちは平行宇宙を生きていて、彼岸には常に、既に、到達していて、
結局、何もする必要は無かった、というのが釈尊の結論です。
その証言が、「有情非情同時成道、山川草木悉皆成仏」です。
こんなに明白に釈尊が言い切っているのに、全くスルーして、それをスローガンに祭り上げてしまったのです。
ただ、言葉の世界の中には、苦があり、混乱があるので、それには対処する必要があります。
しかし、それは「言葉の彼岸」から見てみれば、本質的なものではないです。
「しかもかくのごとくなりといへども 花は愛惜にちり 草は棄嫌におふるのみなり」(『正法眼蔵・現成公案の巻』)
「始めに言葉があった」(『ヨハネによる福音書』)
西洋の伝統では、言語に対する問題意識がずっとあったのでしょう。
そして、現代になって、それは頂点に達して、現代哲学は、言語を集中攻撃しているようです。
東洋の伝統は、「心」に対する関心が中心になっているようです。
心は、思考によって構成され、思考は、言語によって生成されているのです。
そして、それらが、「今」との「隔て」を生じさせているのです。
「真実」、「真如」、「仏性」、「今」・・、そういうものは、今ここに、言葉の世界と背中合わせで存在しているのです。
「言葉の彼岸」として、
常に、既に。
2020年6月6日
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?