シグナルを感じとる体と心
昨日、内田樹さんの講演会に行ってきました。ずっとお会いしてみたいと思っていたので、直接お話しを聞かせていただける機会をいただけて、ありがたい1日でした。
話のテーマは、内田さんの専門の「武道」と茶道についてでした。師匠と弟子の関係のお話から始まり、体幹や構造のお話し、村上春樹の小説の話と柳生宗矩の話まで。いろんな話題を扱いながらも、それが一本の線に収斂していく様子は芸術作品か映画を見ているように見事でした。以下は僕が内田さんのお話からインスピレーションを受けて、自分なりに解釈してまとめた駄文になります。
堅牢な構造と魅了する細部
村上春樹の小説と茶道の共通点は、構造がしっかりとしているということ。茶道で型やルールと言われるものが厳しければ厳しいほど、その構造に揺るぎなさを与えてくれている。その頑なさが、一方で細部に自由を与えるということを思いました。そしてその自由さが人を魅了してくれるものです。村上春樹の小説も一貫して、同じ構造を取り続けています。そのカチッとした構造が細部における自由さを与えています。読む人はその細部に魅了され、世界観を楽しみます。
シグナルを通して伝える
お茶事における構造と細部の関係も、村上春樹の小説と同じアナロジーで、きちっとした構造のもとに、人を歓待するための無数のシグナルを埋め込んでいきます。掛け軸の主題、お花、お菓子、懐石に明示されないテーマがあり、お客さんを歓待するという亭主の思いが無数のシグナルとなって現れていると思います。そうしてこちらから発せられるシグナルの多彩さを教養と呼んで、昔の人は尊んだのでしょう。
村上春樹の小説という体験
20代の時に夢中になった、村上春樹の小説。読後に教訓が残らないことが不満でした。もっとカチッとした生きる道しるべみたいなものを欲していた時期には、村上春樹から手が遠のきました。内田さんの話を聴きながら、村上春樹の小説を読み終わった後の、なんとも言えない爽快感を伴った読後感を感じ直していました。
明示しないという豊かさ
世界中がメタファーに溢れているような、平凡な日常がまるでワンダーランドのように感じられる感覚。主題やメッセージが明示されない世界観の中でこそ、僕らは本質的な豊かさを感じられるのではないかと気づきました。それはきっと、お茶事の中に張り巡らされた無数のシグナルとメタファーがきっと、主題を明示しないという決意と覚悟をもって、客のシグナルを感知する力に委ねられるという豊かさにつながります。
そしてそれを体験した後におとづれる普段という日常が、実は無数のシグナルとメタファーに彩られた豊かな世界であるということに気づくことができれば、いい小説といいお茶事は成功ということになりますでしょうか。
ノルウェイの森と僕の東京
思えば、たまたま家にあった「ノルウェイの森」を高校生の時に読んだことが、早稲田大学を受験するきっかけになったのかもしれません。2000年代の早稲田は、村上春樹が通った早稲田と随分ちがっていましたが、それでも中央線から見える桜や千駄ヶ谷の空気。彼が感じた東京と僕が感じた東京。そして今の東京。
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