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ベクトル。あちらはあちらを向いていて。

人間関係は本当に奇妙奇天烈なもんだなと思う。

相思相愛。これは男女間関係なく、色んな環境であると思うけれど、
これまた、その瞬間・瞬間で、相手のそして自分の気持ちが変わっていく。

普遍性を持たない、人間関係というのが100%当たり前だ。
というのも、今までの人生で違うなぁとも思う。やはり奇妙奇天烈なので
ある( ´_ゝ`)

けれど、殆どの人が「相手1人」の2人称で、人間関係を考える。

社会や生活で、色んな人に出会っていても、対峙するのはその都度その時の
「1人」に対して。
衆人として、社会集団として、自分を見る、相手を見るというのが、
なかなか出来ないでいる。自分もそうだ。

しかし、この対峙している「1人」というのをとっぱらったら、
結構人間関係は、楽に考える事ができる。

例えば「慈愛の心」なんかもそう。

「あの人は、こういう所で苦労しているんだから、自分もそうしよう」
と考える時に「集団の中で」というワードをくっつける。

そう捉えて、相手の事を考えれば、自己主張もせずに、相手の事を
自然と思いやることが出来る。

これは、仕事の中で経験した中で、いつでも頭においている事だ。

そうなってくると、相手が思う「対峙している想い」
そしてその相手が思う「対峙している想い」
そして・・・そして・・・と続けていけば、そのベクトル=思いの矢印は、
もう物凄い数に目の前に表れる。

それは瞬間の出来事でこうなのだから、時間を動かしていくと、
この矢印は物凄い数の矢印が、物凄い勢いで動いてる。

棒磁石。
昔、学校で使った「藍色と赤」の棒磁石に砂鉄を近づけると、
磁力の波に沿って、綺麗な文様を描く。

それが、注目を浴びる人の「一瞬の相手のベクトル」みたいなもの。

それを見ても、集団が一斉に相手を見つめているけれど、
1つ1つの砂鉄には、あなたとだけ私は対峙しているという現象は
全く見られない。そんなもんだろうなと思う。

そんな中で、SNS上で「蠢くベクトル」を見るのが好きだ。
どんな人にも「推しや愛する人、想う人」がいて、
それが一斉に向けられている人がいる。

しかし、その一斉に向けられている羨望を余所目に、その相手は
全く違う人にベクトルを向けている。

うごめくベクトルの1つは、その向けられた相手との対峙の中にいて、
それぞれの想いを相手にぶつけている、想っている。

自分は冷めている訳では無い。
ただ、そのベクトルの中にいる事がしんどくなってしまった。

このベクトルと向き合うパワーが無い。エネルギーが無い。

もう午前&午後の仕事に費やしてしまって、やっとその人間関係から
離れた今。それを違う人に対峙して心をぶつける力がない。

疲れているのだ。

しかし、この集団の中に自分も相手もいて、そのベクトルはそれぞれ
対峙する「確率は少ない」と考えるだけで、自分は本当に楽になる。

そう言っても、パーソナルスペースを整然と、倫理観を前提として、
今の時間を過ごし、一人ひとりの相手に、誠実に向き合う事は出来る。
ただ、全力で力を向ける事はできないなぁ。疲れているからなぁ。
と思う気持ちが強いだけです( ´_ゝ`)

色んな人のベクトルを「認識」しつつ、
自分は自分で「自分の中の心と対峙する」
これが、今の自分には大切なんだろうと思います。

ゆうさん


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