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心を込めて花束を。

母の強さって、本当は(あえて本当はと使う。)どこにあるんだろうか?

それは「我が子を慈しみ、愛し、自分の命を捧げてもいい」という、
「純真な自己犠牲」が、とても輝き溢れる存在に思える。

自分は、両親からの愛情は受けていない身なので、こういった事を書くと、
改めて、自身が考える母の存在が本当に羨ましい限りだ。

過去には色々な歴史がある。その中に「戦争」という、最も悲劇的な出来事
が思い出される。

元々、母の日も戦争に行く子供に対して、母親が反対した活動から始まった
のではないだろうか。(薄ら覚えですいません。)

ただ、日本でも一時期。
「国のために、子供を育て、戦地に行き、立派に死を遂げて御奉公する。」
といった、悲劇的な事があった。

その中で、兵士達が書いた「最後の手紙」の中には、必ず母親への感謝が
綴られている。

当時身内への私信でさえ、軍が検閲をしていた頃。
最後は「御國の為に、滅私奉公の・・・」というような言葉で締めくくられて
いたにせよ、母親への感謝は、数行の言葉の中に有り有りと子が親へ紡ぐ
愛情が見受けられる。

現代はどうか?

その当時と比べて、全く平和な世の中になった。
しかし「個=個人」としての、悩みや現実との乖離に、女性のみならず、
男性も受け立ち、ストレスを感じる世の中だ。

その中で子供を育てる。これは相当に厳しいものだと感じます。

では、個人として母親を守るのは誰か?
それこそが家族であり、なかんずく子供の成長こそが、大きな力になる。

母の日という日の制定は、どういった意味合いがあるか分からないけれど、
「日々、両親に感謝する。」というのは、ありきたりな言葉だけれど、
必要かと思う。

自分はどうか?

自分は母親ではなく、呑んだくれた父親の言葉が離れられない。

「ボロはボロでも親は親」という言葉である。

自分自身は「産んでくれてありがとう」という、最低限の気持ちだけは
持っているつもりだ。

産むという行動自体が、女性にしか出来ない事。

これは肉体的な構造を言っているのでは無く、
「必然的に子供を産むのは女性」という、説明しがたい尊厳の意味を持って
話しています。

産みの苦しさというが、この誕生の瞬間から、女性=母の偉大な行動が
「託されている」んですね。

本当に偉大なんですよ。結局母は。

いつもで無くていいと思う。
夫婦が一個人の生活の中で、違いがあって、そこに感情的になる事も
あろうかと思う。

しかし、日々。という所までいかなくてもいい。

母親という家庭の大きな花。
母親という家庭の大きな船。
母親という家庭の温かな光。

たまには、そういった考えで、一個人でもある母親に、感謝の行動を
示していこうというのは大事だろうと思います。

あと。

色々な事情で、子供がいない家庭もある。
離婚した人もいる。
ワンオペで働いている女性もいる。

全て語り尽くせませんが、
平塚らいてうの言葉を最後に残して、心を込めて花束を。

元始、女性は太陽であった。

ゆうさん



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