東京の真ん中、江戸城(皇居)を極めませんか その4(北の丸から田安門へ)
レトロもレトロ、東京の真ん中の真ん中の江戸城です。誰でも知っているし定番中の定番で情報も溢れているんですが、外せないポイントでもあり真っ先の載せます。「江戸城を極める」ということで、皆さんも案外見落としているところもあると思うので、一読頂けたら嬉しいです。同時に、江戸城のみならず内堀の周囲にある近代の遺構も沢山あるので、一緒に取り上げていきます。
その4(北の丸から田安門へ)です。因みに「江戸城を極める」は以下のようになっています。外堀については後日レポートします。
その1 (江戸城本丸から三の丸)
その2 (内堀 和田倉門から外桜田門へ)
その3 (内堀 平川門から清水門へ)
その4 (内堀 北の丸から田安門へ) 本記事です
その5 (内堀 千鳥ケ淵から桜田門へ)
マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出る)はこちらのリンクから。
清水門から北の丸公園に入りました。北の丸は戦後、武道館や科学技術館、東京国立近代美術館など種々の施設ができて、公園として整備されました。北の丸は江戸時代中期には御三卿のうち、田安徳川家・清水徳川家の屋敷に利用されていました。明治以降、国有地となり近衛師団司令部、近衛歩兵連隊の一大駐屯地となり、その遺構が多くあります。
図は、左が江戸期の北の丸の姿で、田安徳川家・清水徳川家の屋敷が占めています。右が明治以降に大名屋敷の跡に近衛師団が展開していた配置図です。下の図では近衛師団の正面には北白川宮能久親王銅像が見えます。
清水門から歩いていくと、程なく右側に吉田茂の像が目に入ります
吉田茂像
乾門方面へ歩いていくと竹橋から千鳥ケ淵へ通じる代官町通りに出ます。その直前に北白川宮能久親王銅像と旧近衛師団司令部庁舎が現れます。
北白川宮能久親王銅像
旧近衛師団司令部庁舎
この建物は、1945年8月14日に「玉音盤クーデター未遂事件」が起こった場所としても知られています。戦後は東京国立近代美術館工芸館として活用されましたが、現在は閉館しています。
江戸城乾門
乾門は江戸城の乾の方向にある門の一つですが、実は明治21年、皇宮建設の際に新たに誕生した「明治の門」。坂下門の内側にあった西の丸裏門を移築したものです。写真のように通常は近寄るのさえ憚れる程、警備は厳重です。
江戸城北桔橋門
地図で見ると、この門を入ったすぐ正面には江戸城の天守閣があることが分かります。この門は江戸城北側の守りの最重要地点で、そのため橋の形状を「跳ね橋」としたことから名付けられたとあります。
東御苑の出入り口ともなっています。奥まったところにあり、東御苑が定休の場合は閉鎖されます。東御苑に入場しない場合は通り過ぎてしまいます。ここから、武道館方面へ向かって戻ります。途中の林の中に近衛歩兵第一聯隊と第二聯隊の記念碑があります。
近衛歩兵第一聯隊、第二聯隊記念碑
武道館を横に見ながら、田安門へ向かいます。
江戸城田安門
田安門は1636年(寛永13年)に建立。当時の原形を保ち国の重要文化財です。因みに記事で何度も書いていますが、江戸城の門のうち清水門、田安門、外桜田門が当時の原形を保ち、国の重要文化財に指 定されています。
田安門の石垣の上にある弥生慰霊堂(非公開?)は警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀っていますが、入場は規制されて近づけませんでした。
田安門を出ると左側に高燈篭、品川弥二郎像、大山巌像が並んでいて、向かい側は靖国神社になります。
高燈篭 (常燈明台)
靖国神社正面の常夜灯として1871年(明治4年)に建設されました。当時、品川沖の船にとっては灯台の役目も果たしていたといいます。当時は東京湾からここが見えていたというのは驚きですね。
品川弥二郎 像
歴史に疎いので、初めて聞く名前でした。調べると…元長州藩士。高杉晋作らと英国公使館焼き討ちなどを実行し薩長同盟の成立に尽力。維新後は欧州へ留学し明治政府の内務大臣などに就任した…とあります。
大山巌 像
こちらも初めて聞く名前でした。調べると…元薩摩藩士。戊辰戦争では各地を転戦、維新後は欧州へ留学しました。西南戦争をはじめ士族反乱を鎮圧し、陸軍大将、内大臣などを歴任しした…とあります。
ここから千鳥ケ淵を通り、桜田門へ向かいます。東京の真ん中、江戸城(皇居)を極めませんか その5(千鳥ケ淵から桜田門へ) に続きます。
この記事は、私の「東京レトロ街歩きガイド&マップ」サイトのテーマ別「Th-01江戸城を極める」を基に街歩きをしています。記事の内容以外にも街歩き検証はまだですが、外堀を含めて江戸城のAll in Oneのガイド&マップになっています。こちらもぜひご覧ください。
いただいたサポートは今後のコンテンツ充実の活動費に使わせていただきます!