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【第1弾】ニジェール渡航記:ニジェールに行こうとしたら、行けなかった日。
赤とオレンジ。
外務省の危険度数を表すマップはオレンジ色の「退避を止めてください」と赤色の「避難してください」。この2つのみ。
現在、現地に住んでいる日本人は3人のみだったりする。
そんな国に昨年末から年始にかけて、渡航した。
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資源があることによって武装勢力が暴れているニジェールは、しばらく渡航できない危険な国として認定されてきた。また人間開発指数では、常に最下位を争うもいう最も人間らしくない貧しい国に指定されてきた国でもある。
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シリアやエジプトでデモ隊に囲まれ、トルコでサルモネラ菌にかかって死にかけたり、ブラジルで原因不明の疫病にかかって入院、ナイジェリアでも発砲された僕だったけど、やはり事前に危険だと言われる国に行くのは気が引けた。
三木夏樹との出会い。
ニジェールに渡航を決めたのは、三木夏樹から連絡をもらったことがキッカケだった。
三木夏樹とは、僕がJICA青年海外協力隊でベナンを訪れているときに出稼ぎという理由で、ベナン事務所で調整員として働いている人だった。
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今度また書くことにするが、僕がアフリカで交通事故に遭遇して苦しんでいるときに何度も相談に乗ってもらい、24歳にして価値観を良い意味でぶち壊してくれた人だった。
協力隊は前述の理由で、早めに切り上げた。そこから数ヶ月は、何度もやりとりして、ちょっと間隔が空きつつあった約3年前、メールでやり取りをすることがあった際に、たまたま日本に帰って来ていた。
急遽、東京で会うことになった。そこで、ニジェールでの話とか新しく村をつくる構想を聞いた。当時は、ニジェールのことなんて想像もつかなかった。彼から発せられるニジェールでの体験談に、ただただ「どんな場所なのだろうか、行ってみたい」。と思うようになった。
その一ヶ月後ぐらいに、大阪からニジェールへ戻るというので、仙台で出張だったのだけど勢いで夜ご飯だけ食べて、朝一で戻るという強行スケジュールで、改めて三木さんと会った。
話をしていくと、資金の調達で立ち止まっているとのことがわかった、すると三木さんがニジェールに戻ってから、数ヶ月後に以下の文面で連絡がきたのだった。
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ーー
あけましておめでとう。
もうな干支とかわからないけど、今年もよろしくお願いします。
現場に関して、すごく助けて欲しいお願いがある。
村をひとつ、つくることになった。
何もないところに建物や掘削して深井戸掘ったり。
荒くれ者(サイコパスっぽい人たち)が増えた村があって、誠実に生きようとする住民が一生懸命活動すると、それを潰したり、脅迫したり、家族まで被害にあって、このままだと襲われたり、拉致されたりしかねなくなった。
誠実に生きようとする住民がとびきり逸材揃いでね。
なので、誠実な住民を救い出して、別の場所に村をつくって移住する。(俺もいっしょに移住する)
これから土地を買って、2021年の11月ころから深井戸掘削して、藪切り開いて、家建てて、村つくるんだけど、そのための資金200万円から300万円を調達する方法を教えて下さい。
そして、村作るの手伝って。
何にもないところから、村作るのきっとおもしろいよ。
ゼロからだから、これまでの常識に囚われないしくみや制度を住民と作っていく。
ーー
三木さんに相談されるなんて思ってもいなかったし、彼から相談事を頼まれたのは初めてのことだったので、僕はニジェールに行くことを決めた。即答だった。そこから仕事の兼ね合いで行けなかったり(村までは、スケジュールが14日は必要)新型コロナがやってきて渡航できず約1年が過ぎてしまった。三木さんのいる村は電波が入らないのと、彼はスマートフォンなどを持たないので、連絡が遅い。
そして、一気に一ヶ月分のことを返してくれるので文面がすこぶる長いのである。それでも、月に一回はメールのやり取りをしていたのだった。
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1年が過ぎようとしているタイミングで、三木さんが一時帰国をしようとしていることがわかった。新型コロナで、空港ならどのうように動くとベストなのかニジェールには日本の情報なんて皆無なので、そういったことの質問があったのだった。
帰国日を聞いて、僕はレンタカーを借りて関西国際空港へ迎えに行くことにした。他にも方法があったのだろうけど、身体が勝手にそうしていた。
ホテルまで送る車内では、この1年間の出来事を話してもらう。ストレートな言葉や、ストーリーに心に話が突き刺さった。
彼が予約していた隔離用のホテルまで到着。あっという間の時間だった。
また隔離が終えたら会いましょうと約束して、その日は解散。
隔離生活を経て、三木さんの実家は京都の山科だったこともあり、私の京都市内の家へ夜ご飯を週に一度は食べに来た。今までのこと、これからのことをたくさん語った。
これから村づくりを手伝ってくれるであろう仲間もたくさん呼んで、紹介した。オンラインでも、たくさんの仲間を紹介して話しをしてもらった。なんとか三木さんにとってプラスになることを、と思って人をたくさん紹介していたのだけど、みんなが楽しそうに話している姿に多幸感に包まれていた。
三木さんとオンラインイベントで、登壇してもらえるような企画も立てた。すると150名近くの参加申し込みがあった。
オンラインイベント当日、三木さんが1ヶ月後ぐらいに帰国するかもということを聞かされる。「自分も、一緒に行こうかな」と頭によぎった。
だが、その頃は新型コロナのデルタ株が大量に流行っていたのと、仕事が立て込んでいて2週間も連絡がつきにくくなるのはヤバいということだけは分かっていた。
それでも行きたいという気持ちが止められず、たまたまイベントをやっていたお世話になっている落語家の師匠に話をすると「それで行くのが奥 祐斉やろ、何悩んでんねん」。と、迷って球を投げたら、ホームランを打たれたかのようなアドバイスをもらった。
確かにコロナ禍になっていなかったら、確かにそういう選択をしたはずだ、と航空券の比較サイトで睨めっこしはじめた。
そして、オンラインイベントを待たずに航空券は100万円近くしたので10年間貯めていたマイルを全部使って航空券を取得。当時は日本に領事館がなかったので、フランスの在パリの領事館へVISAの申請に必要な登録用紙や写真などを準備した。
オンラインイベント内で、仲間にもニジェールに渡航することを告げた。
久しくなかった冒険に出るという高揚感、ドキドキとワクワクが一緒に共存していたように思う。
そして、出発は、8月2日になった。
三木さんは、関空発、僕は羽田空港発だったのでパリのシャルル・ド・ゴール空港で落ち合うことに。
オンラインイベントも満員御礼。投げ銭で実施したのだが、85万25000円もの金額が集まった。奇跡のイベントになった。参加者皆さんからの感想もとても考えさせたれる内容だった。
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そして、ニジェール渡航当日。どうしても参加しないといけない会議があったので、東京発にして東京へ。銀座でPCR検査を受けた。
PCR検査後は、駅にあったリモートワーク用のBOXでオンラインでのミーティングを数本、あとはパソコン作業をしながら過ごした。そして、羽田空港へ向かう準備をしている時に電話が鳴った。
「奥さんの携帯ですか?たった今、メールをしたのですが、陽性の証明が出ましたので、ご報告いたしました。体調は悪くないですか?今どちらにいらっしゃいますか?保健所にはこちらから連絡しておきますので、次からは保健所の指示に従ってください」。
淡々と言われる言葉が嘘なのかもしれないと思った。頭が真っ白になり、オンラインイベントで高らかにニジェールに渡航する宣言した自分が恥ずかしくなった。その時の様子は、noteに記載してみた。
そして、メールを開くと「陽性」の証明書が。飛行機への搭乗を目の前にして、渡航が中止に。理解しようと思っても、理解しきれなかった。
病気は分かったから悪化したのか、そのあと2週間ぐらいは体調がすこぶる悪くなった。三木さんからは、「アフリカは逃げないからいつでも来なさい」と連絡をもらったがそれどころではなかった。
隔離のホテルに入院、2週間は熱と咳が止まらなくなってきて、大変な思いをした。まさか、次の渡航に半年もかかるなんて、この時は思ってもいなかった。
つづく
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