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父親と2人でヨーロッパ旅行してみた。

父に、ヨーロッパ旅行をプレゼントした。

この年末年始、父にヨーロッパ旅行をプレゼントした。
僕がガイドになって。それには理由がある。

「いろんなところに行きたい」という父の要望に応える形で、フランス、イギリス、スペイン、オランダ、ベルギーと約8日間で、5カ国も周遊した。

最後、パリの空港から帰国する父を見送り、僕はさらにアイルランドまで向かった。

飛行機を待つ間、感情が溢れてきたので、父に旅をプレゼントした経緯をnoteに長文を書き記してみようと思う。

最終日のパリで

旅を締めくくる晩餐は、父が大好きな牡蠣をパリのレストランで。

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父は生牡蠣を美味しそうに頬張りながら、「中学生の時はどうなることかと思ったけど、祐斉にヨーロッパに連れて行ってもらえるとは思わんかったなぁ。ありがとうな」と、ぼそっと言った。


男同士だからなのか、面と向かってはストレートに感情を出さない父なので、嬉しかった。

父にとってヨーロッパ旅行は初めてのことだ。旅への誘いは2年前からしていたが、「年末年始は忙しいねん」などと言って断られていた。だが、今年はわりと早い段階で「職場に休みをもらった」と旅する意思を伝えてきた。根気強く、誘ってきた甲斐がある。

父は、せっかく行くのなら「いろんなところに行きたい」と言い、前述した通り5カ国を旅した。

平均して1日に2万5000歩、歩き回った。64歳にしてはタフな父だ。

1日・2日目は、イギリスのロンドン

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3日目〜5日目はスペイン・美食の街 バスク地方へ

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6日目は、オランダのアムステルダム

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7日目は、ベルギーのブリュッセル~フランスのパリ

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年越しはパリで

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荒れていた中学時代。決して見捨てなかった、母。

中学生の僕は、荒れに荒れていた。

尾崎豊をリアルタイムでは知らないけど「15の夜」の歌詞の世界のようだった。自他共に認める”やんちゃ”を極めた中学生。学校で悪さをしては、両親が学校に呼ばれ、謝る。学校の機材を壊したこともあった。

喧嘩をしては、相手に怪我させ、菓子折りを持った母と一緒に謝りに行った。何度、自分のせいで母に謝らせて、いくら弁償させたのかわからない。

励んでいた野球も途中で辞めた。
そんな僕を、母は決して見捨てなかった。

友達と夜遊びをして夜遅くに帰っても、起きて待っていては僕を叱り、夕食がテーブルの上に置かれていた。洋服をお風呂場に脱ぎ散らかしていても、決まって次の日には洗濯が終わって洋服が畳んで置いてあった。
朝になると陽気な歌声で僕の部屋に入ってきては叩き起こして、僕を学校に向かわせた。授業を抜け出して学校の外に出て徘徊していたら、先生から電話があったのか自転車で探してくれた。その姿が、寝転がっていた公園のベンチから見えた。

無言で帰った僕を「心配していた」と、母は強く抱きしてめてくれた。

母の薦めで高校に進学する

姉は県内でも有名な進学校に入学し、学校ではいつも姉弟で比較された。

僕は、「高校に行かずにとび職をやる」と進学することを三者面談で拒否したが、母が「野球に未練ないの?最低でも高卒の資格を持っていた方がいいよ」と県内にあるいくつかの野球部で通信制高校のある学校のパンフレットを探して持ってきてくれた。そして、母が探してきてくれたすべての高校に母と一緒に見学に行った。

父は、”THEサラリーマン”で、毎日夜遅くまで働き、家にはおらず、どちらかといえば金銭的な部分で支援してくれたように思う。いつも母親に尻に敷かれる感じで、強く主張はせず、母親のことをフォローしたり、素直に「へいへい」と、ついていく父だった。

高校進学だけのつもりが、大学にも進学。
旅にもハマり、海外が変えてくれた。

僕は通信制の高校に通い、数学の問題が解ける喜びを得たこと、通信制高校というコンプレックスで“普通”になりたいとの思いなどが混ざり合い、大学進学を志し、勉強に励むようになった。大学に入学してからは旅に目覚め、バイトをしては長期休みの期間に旅をする生活を送った。

勉強も今まで以上に取り組み、20歳でブラジルに短期留学し、留学中にJICAの青年海外協力隊の人と仲良くなったことがキッカケとなり、いつしかJICAで海外ボランティアをすることが夢となった。

旅の間も持前の根性で、現地や海外の旅行者と、なんとか意思疎通していたけれど、JICAの夢を達成するには、英語が必須だということを知ってから、1年間休学をして留学もしくはワーキングホリデーに行って英語を習得したいという気持ちが増していった。

休学の意思を伝えたときの両親の反応と最後の約束、そして母の死

父が休みの日に、夕食後、洗い物をする母にも席へ座ってもらって、僕は「1年間、大学を休学して留学と旅がしたいがお金がない」と伝えた。

母はすぐにこう言った。「仏壇の引き出しに、あなたが小さい頃から貯めていた郵便局の学資貯金がある。それを足しに使いなさい。あなたが英語の勉強がしたいっていう気持ちだけでもすごいこと。でもね、条件がある。祐斉が英語をしゃべれるようになったら、私たちをヨーロッパに連れて行って、ガイドをしてね」と。

その1週間後、母は突然の病で帰らぬ人となった。なんの前触れもなく。

母は感情的になりやすい面もあったが、とびきり愛に溢れる人だった。母が亡くなってからも数ヶ月は、朝起きるとキッチンで朝ごはんの支度をしている母の姿を探した。

僕はずっと、母との「英語がしゃべれるようになったらヨーロッパに連れていく」という果たせなかった約束のことが頭にあった。アルファベットのbとdの見分けがつかないくらいの英語力だった僕が、今は世界中どこにだって一人で行ける程度に英語を話せるようになった。決して安い買い物ではなかったけど、父が元気なうちにヨーロッパ旅行に絶対連れてきたかった。
今回、最終目的地のパリで父を見送った時、「約束が果たせたんだ」と胸がいっぱいになった。

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父は「そんなことお母さん言うてたかな?」と言うかもしれない。

だけど、それを抜きにしても、父がとても楽しそうにしてくれていたことが何より嬉しかったので、男2人で、いや母の魂も一緒になので3人で、ヨーロッパに来ることができて本当によかった。

母の死から教わったこと。明日がないと思ったら、今日の自分はどう生きるのか。

これからも目の前にいる人を大切に一瞬一瞬を生きていきたい。

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