夢夢にも
さて、さてというとなんだか自分が偉い人間のように感じる。さて、と言う言葉を使うのはどういう人間なのだろうかと聞かれれば、先生や金持ちのお爺さん、知識人etc…
僕はそのどれとも違うけれど、そういう言葉を使いたくなる。さて、さて、さて。余談だけど、では、というのもまた瀟洒な言葉だ。そういう転換の接続詞はいつだってまるでシャム猫のように上品だ。
さて、僕はこんなことを書きたいわけではない。アイスブレイク。というかなんで長めのTwitterみたいなものにこんな文体でこんなことを書いているのだろう??ともあれ、ともあれという言葉も…
結局のところ僕がいいたいのは、頭で考えることの殆どがそれは大した意味を持たないということ、期待をするのは構わないが、叶うかどうかは別物だ。だからあえて言いたい、おいお前、そこのお前だ、転換の接続詞が血統書付きのドーベルマンのように…とは少し違うけど、シャム猫のように上品だとか言っているお前だよ!村上春樹はスプートニクの恋人で「大事なのは他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」と言っている。だが、それでもだ。小さなことというのは胡麻のように大きなものでもないということ、それが及ぼす範囲は僕一人すらもっと言えば僕の頭すら覆うことすらできないということ、だから夢夢にも思うな。そしてマーク・トウェインの言うことには人間の思考なんてものはおよそ外的要因から与えられたものであるということ。だから夢夢にも思うな。お前はお前であって、お前ではない。そしてお前は世界の一部であって、世界はお前の一部ではない。ある意味でお前は世界全体かもしれない。それでも、夢夢にも思うな。お前はなんの力もない人間という生き物なのだから…
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