「エモい」と「キモい」の区別がよくわからない
言葉としては耳慣れてきているし
エモいのは「エモーショナル:感情を揺すぶられるようなとか情緒的とか郷愁みたいな感動的で複雑な想い」から来てる言葉で、良い表現らしいってこととキモいのは気持ち悪いの略語なんだろうって理解はしてる
わかってるけど、使い慣れない。キモいは何となくしっくりくるけれど、それと同じような語感があるので、「エモい」からキレイなイメージは自分には感じられない。
ついでに「バズる」という表現も、キレイなイメージには変換しきれない。話題になって賞賛されるって感じかもしれないけれど、何となく語感が騒々しい。

その時期やその人なりの気持ちや感情、思考の表し方があるし、その時々の世相によって使われる言葉は変わってくるから、そういう言葉を否定しないけど、受け入れできないのは自分が社会の本流からはそろそろ外れていく年代になったってことだと思う。「エモい」も「バズる」も否定はしないし、そのような表現を認識するけれど、その言葉を使うかっていうと躊躇する。馴染まないものは不自然。

時代は変化して、自分は年をとっていく。だから、今の時代は○○、今の若い子は○○、昔は良かったな~なんて感じることがあって、言葉にも出したくなる。こんな自分にハッとすることが増えてきた。
時代の変化や流れについて行けないけど、正直悪いことだとは思っていない。自分には自分の価値観が育っているし今の主流に乗ることだけが、目指すことではないから。無理して若作りしたり、盲目的に今の流行に迎合するのは何だか痛々しい。

だからといって、自分の経験だけを根拠にして、人に説教することも違うよねって思う。思ってるけれど、息子とか実生活で見かける若者とかネットやSNSで遭遇した若者等に「それ違うんじゃない」とか「生きるってそんな簡単なことじゃないよ」みたいに教えたくなったりする。
そういうことを老害といって、自分も常々忌み嫌っていたはずなのに、エラそうに価値観を押しつけるみたいなことをしたくなっている。時代や環境が変化してるってことを理解しなくちゃいけないのに。

長く生きてるってことは、それなりに経験を積んで知恵も蓄えている。対応力も身につけてるし、いろいろな失敗も重ねている。その積み上げは貴重なもの。ただ、それをそのままの形で下の世代に教えても疎まれるだけ。
今を否定して、正しいことを教えてやるって姿勢は、ただの承認欲求に過ぎない。

もう、シニア世代になってる自分。平たく言えば「おばさん」だし、早い人は「おばあちゃん」になる年代。それ自体を嫌がっても、悲しんでもしょうがない。自分にも若い頃があったし、今の若者も数十年後にはおじさん、おばさん。時の流れは誰にでも平等なだけ。
今の時代や若い人たちに反発して経験を押しつけること、反対に媚びることどっちも見苦しい。誰に対してもフラットな距離感で接して、今の自分が持ってる経験や価値を大事にしながら、自分なりの新しさを見つけていくことが、これからの自分の課題になる。

10代、20代、30代、それぞれの年代に煌めきがあってまぶしさがある。40代も50代も貴重な時間。自分はまだ60には届かないけれど、70,80の方々からみればまだまだ未熟で頼りない。

もう若くはない自分だけれど、まだもう少し時間はありそう。年齢や経験を受け入れつつそれに拘ることも捨てて、今自分が感じることを意識して言葉にしていこうと思う。できないことを素直に認めて、できないけれど必要なことは覚えるように努力する。そして、年齢性別所属全て関係なく良い人や物から学んで、そうじゃないものは反面教師として捉えたい。