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多様性って認められないことも受け入れること

世の中は多様。今に始まったことじゃなくて、昔からいろいろな考え方をしていた人がいたはず。ただ、発信の方法が少なかったのと、これは言わないでおこう、しないでおこうって自制心が強く働いていたように思う。
人々が素直に自分の想いを発信して、それが社会全般に受け入れられるのが理想だと思っている。いろいろな考え方があって良い、いろいろな人がいて良い。
自分も基本はその路線ではある。人は人、自分は自分。だけど、無条件に多様性を肯定することはできない。自分に害が及ばない範囲で、他人に干渉したり傷つけなければ、ってことが常に大前提としてある。
人の多様性を認めよう、って言葉はきれいで尊いのだけれど、ストーカーとか犯罪行為、そこまでいかないけれど故意に人を傷つける発言とか、見聞きしただけでも、やっぱり気分悪いし多様性で擁護することはできない。

人の考え方は様々。何かを主張したり、何かの意見を発信することは自由であるべき。ただ、多様性の名の下に発信したことには賛成する意見だけでなく、反対する意見だってある。異論・反論も多様性の一環であるってことを自覚する必要はいつもあるんじゃないかと思う。

自己の主張だけを発信して認めてほしいってことが多様性の尊重ではなくて、いろいろな考えを持つ人、いろいろな個性があるってことを理解すること。自分の主張があるけれど、他人にも主張したいことがあって、自分の主張とは対立したり否定の立場ってこともある。
多様性・多様性って言わなくても多様な世の中。それぞれの個人が、どの範囲に許容性を持ってるかって自己認識して何が許せて、何が許せないのか、その尺度も様々ってことを知ることが、多様性尊重の第一歩だと思う。

因みに自分は、犯罪は許せない、人を傷つけること悪意のあることはやってはいけないと思うし責任感の欠如には厳しめ。ただ、どんな場合も背景にあるものを知らなければ安易に判断や評価はできないな~みたいな価値観だったりする。
何事にも賛否両論があって、幅広いボーダーがあって、白と黒の間がグラデーションになっている。わからないことだらけの世の中。
自分がわからない存在って自覚すると、世の中の見え方が謙虚に近づく。自分の考えも含めて、断定できないことの何と多いことだろう。
いろいろな人の考えに触れること、バイアスはあって当然だけれど、偏りを自覚しながら、柔軟に捉えて受け入れられる範囲を広げていくこと。
多様性って認めるというより、受け入れるって感じが自分の場合にはしっくりくる。多様性を論じるときには、自分の価値観に向き合うことも大事になってくると思う。

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